FCAJInterview05 島裕さん

■Q1. 最初に、「地域振興」に関するお仕事経験について教えてください

松田:「地域のためになにかやりたい」という想いを大切にしている自分にとって、島さんの「地域振興」に関する仕事経験にとても興味があり、詳しくお聞きしたいです。

島:地域振興のお手伝いをする仕事を担当していたころは、地域プロジェクトの企画サポート、地域経済や設備投資動向の分析、地域のトピックを調査レポートとしてまとめる、といった業務を行っていました。エリアとしては関東甲信地方や東海地域を担当、一人出張が非常に多く、平日の昼間にローカル線の何もない駅で電車を待つのが日常茶飯事でした。当時、「シャッター商店街」が社会問題になっていた頃で、地方の駅前にはお昼ご飯を食べる場所もない…という状況を肌身で感じました。

いくつもの事例を経験しましたが、地域振興というものは難しく、未だに悩みます。当時も、なるべく地域に入り込んでいくように…とか、地域のステークホルダーと知り合っていくと情報の質が変わってくる…ということは分かってはいました。でも所詮は「よそ者」であって、地域で本当に頑張っている人たちと比べると、落下傘的に来て、もっともらしいことを言って、仕事が終わると帰っていく。これでいいのか?というのはずっと感じていました。ただ、そのうち「自分のような人がいてもいいのかな」と思うようになりました。地域の方々が、地域をよくしたいと考えるのは当然なことですが、一方で逃げも隠れもできない、しがらみもあるから思いはあっても動けないケースもよくあります。そのようなとき、ヨソものでモノ好きな人間が一人くらいいるとかえって議論が活発になることがあります。自分はそんな役割を果たせばよいのかなと思うようになりました。だから、いろんな地域の情報をお土産にしていくように心掛けていました。

松田:自分も仕事経験の中で、首都圏から地方に行っては戻ってくるということを繰り返していましたが、この仕事に意味があるのかなと思うことが多々あったので、割り切って関わるという考え方は参考になりました。

■Q2. 新卒で「日本開発銀行」に入職した決め手は?

埼玉で生まれ育ちました。子どもの頃から、運動会で一等賞になるとか、テストで学年5位以内に入るといった、競争して切磋琢磨する、というようなことにはあまり惹かれないタイプです。それにどうも、マイナーな方に惹かれてしまうオタク気質がありそうです。高校3年生からバンドをはじめて、いまも続けているのですが、ギターやボーカルではなくベースを選択しました。埼玉生まれだけど、西武ライオンズではなく、今でも広島カープのファンです(名前を逆さにすると「ひろししま」なので運命を感じて応援しています)。

就職活動をするときも、「競争は苦手」であることや、「マイナーな方に惹かれる」部分がでたのか、当時流行っていた金融業界を志望しながらも、「日本開発銀行(現在の日本政策投資銀行)」という聞きなれない銀行を選択しました。メガバンクはノルマがあって同期との競争が激しそうだな…といったことを考えていました。決め手は、もちろんそれだけの理由ではなく、開発銀行、政府系金融機関であること、など、聞きなれない言葉に興味を惹かれ面白いことをしたいと思ったことです。それに、「開発」にも関心を持っていました。小学生のころ、塾の行きかえりで、山手線の窓越しに西新宿の開発が進んでいるのを見ていました。見るたびにニョキニョキとビルができていくのを目の当たりにしたことが、「都市開発」というものに漠然と興味を抱いたきっかけかもしれません。

■Q3. 「なにを、どうすればいいのかから考える」ことに苦労はあったのでしょうか?

島:銀行でのキャリアの半分は、「技術経営」の仕事をしていました。これは誰もやったことがない仕事で、なにを、どうすればいいのか?から自分で考えながらはじめて、なんだかんだと15年近く担当をしました。

松田:「なにを、どうすればいいのかから考えた」というのには驚きます!自分は、これから何年後に何をしたい、と先に目標を立てて動くタイプで、逆にそれに縛られてストレスになることもあります。目標がないことにストレスを感じることはないのでしょうか?

島:逆に、明確な目標を立てて、そこに向かってコツコツ努力することが苦手なので、自分で考えて!と言われた方がラクだと感じました。何をすればいい、という外からの達成目標がないので、自分で達成目標をつくる。うまくいかないことがあれば試行錯誤してもバレませんし、目標自体を変えられる。自分では失敗かなと思っても、人がつくった達成目標ではないので、失敗したとも思われない。そんなやり方がとても性に合っていたので、苦痛ではありませんでした。こう言ってしまうと身もふたもないかもしれませんが、「面白いと思うことをする」、「先のことを考え過ぎない」ということを大事にしてきました。「知識創造理論」でいう、暗黙知を見つけ出す悶々としたフェーズや、暗黙知を形式知に統合していくようなフェーズといった、「カオスだったものがだんだんわかっていくプロセス」をとても楽しんでいました。たとえば、融資審査をする際も、最初はカオスで何が本質か分からないときも、情報を集めていろんな角度から眺めていくとだんだん結びついていく、その瞬間がとても快感でした。「ユリイカ!」みたいなものですかね。

松田:誰もやったことがないことや、難しいお題を任せられる、というのはすごいと思います

島:気分的には、テレビ朝日のドラマシリーズ『相棒』に出てくる「特命係」のようなイメージです。傍流なんですが、変な話がくると放り込まれるような。誰もやらないマイナー感が、とても心地が良かったです。

■Q4. 地方創生や地域活性化について、注目している要素や考えがありましたら教えてください。

地域振興は実務でずっと携わってきたテーマですが、「地域振興」という言い方をすると、中央からの上から目線を感じさせてしまいます。自分の美学としてもイマイチしっくりこない。江戸時代の幕藩体制の頃のように、江戸幕府はあっても、地域が独自に殖産興業や人づくりをするような形の方がよっぽど多様性があったのではないか。この辺が地域振興の本質ではないかと薄々感じています。でも、正しいかどうかはわかりません。

注目すべきは、やっぱり経済循環ではないかと思います。

明治以降は中央集権にして「均衡ある国土の発展」がモチーフになったことで、地域の特徴が消されていきました。いろいろな政策の変化はあるものの、政策の根幹は、「地域がまだ弱いから、多極的に輝けるように資本やリソースを持っていこう」といった分散型の施策であることは変わってない気がします。

地域の企業の多くは地域内の消費マーケットを対象にしているため、敢えてこれまでとは違うことをしようという気分は起こりにくいのですが、そこから脱却して、地域企業が新しい経済循環を生み出していくことは重要だと思います。

■Q5. FCAJに参画された経緯や今後活かしていきたいことについて教えてください

日本政策投資銀行の技術事業化支援センターで、デザイン思考を軸とするオープンイノベーションの場づくり(金融機関初のフューチャーセンター)に取り組むことになり、有識者として紺野先生に巡り会ったことがきっかけです。

FCAJはプルーラルセクターで、個人が個人でいられる貴重な場だと思っています。それぞれ所属しているある意味封建的な社会(会社)から抜け出して、FCAJという場で「個」になって、個人であるがゆえの自由さや弱さで協力し繋がっていくことで、様々な価値を生み出していると思います。FCAJのコミュニティは、「個人」の精神のレジリエンス(しなやかさ)を維持するうえでも、個人的に大切な存在だと思っています。

聞き手・記事:松田悠大(UR都市機構)

記録・編集:内原英理子(BAO)

2022年6月28日(火)9時00分~10時00分オンラインZoom

FCAJInterview04 秋山弘子先生

■Q1. どうしてアメリカの大学を目指されたのでしょうか?

父が銀行員で転勤が多く、生まれは広島、第二の故郷だと思うのは、中高時代、人格形成の時期を過ごした岡山市です。今に繋がる親しい友人もその時期にできました。

東京大学の大学院に進む頃、いわゆる「大学紛争」が起きました。「大学の古い体制を打ち壊す」と、安田講堂に立てこもって…機動隊が突入して…という歴史上に残るような事件が、目の前で起こった。教育や研究も止まってしまって、本当に様々な支障がありましたが、結局何も変わりませんでした。それで私たちの世代はある種の挫折感を味わったんです。多くの同期が、学ぶ場を求めて海外に渡りました。海外に渡った学生は、卒業するころには、元いた研究室の先生から就職先を紹介してもらって帰国、というのがよくあるパターンですが、私たちの世代は大学と抗争しましたから。ある意味で橋のたもとを切って、もう日本には帰らない、という決意をもって海外へ出たので、海外で研究者を続けている仲間は多いです。

私の場合、とりわけ大学へ悪い印象があったわけではないものの、女性の研究環境がアメリカのほうが日本と比べて、数倍よかったことは大きな要因でした。私は学生結婚をして、そのころすでに子どもが5~6ヵ月かくらいでしたが、夫と共によい研究環境を求めて、日本に帰らない覚悟でアメリカへ向かいました。

■Q2. 「ジェロントロジー(老年学)」を専攻された経緯を教えてください

学部生の頃は「心理学」を専攻していましたが、誰でも青年期にはモラトリアム…自分自身を見つけ出す時期ってあると思います。私はその頃、別に関心をもっていたのが農業と福祉でした。

「農業」は、親族にも農業をやっていた人はいないものの、夫婦で何もないところから創り出していくとか、自然の中で働くのはいいなと思っていました。大学3年生のころ、大学の友人のご縁で静岡のミカン農家で1カ月か2カ月ほど働かせてもらい、農業ってどういうモノかを体験しました。

もうひとつの「福祉」については、滋賀県にある知的障碍児の施設「近江学園」に、1カ月くらい一緒に住まわせてもらうという経験をしました。糸賀一雄先生の著書「この子らを世の光に」という本に感銘を受けて、糸賀先生に手紙をかいてお許しをいただきました。

【参考】滋賀県近江学園 昭和21年11月、糸賀一雄氏らによって創設された児童福祉施設。糸賀氏は「この子らを世の光に」と人々に語り掛け、知的障碍児・者の療育に力を注がれた。

そういう経験をして、色々考えた末、そこにすぐ入っていく決心はつかなくて、大学院にモラトリアムの延長みたいなことで進学しました。そう決めたら、大学が混乱状態になって、大学も世の中も大変なことになって、自分のモラトリアムなどそっちのけになってしまった。そういう流れでアメリカへ行ったというのが経緯ですね…

当時の日本の「心理学」は、人間の発達は青年期くらいまでで、そのあとは研究の対象になっていなかったのですが、アメリカに行ってみると、その先の中年期、高齢期の研究も進んでいました。しかも医学、経済学、工学、社会学…いろんな分野が一緒になった「ジェロントロジー(老年学)」という学際的な学問があることを知りました。

ちょうど私がアメリカに行った頃、有吉佐和子さんの小説「恍惚の人」がベストセラーになって、日本でも初めて社会問題として「高齢化」が認識されるようになったこと、思い起こせば自分がおじいちゃんおばあちゃんっこだったので高齢者に親しみがあったこともあって…ジェロントロジーを専攻しようと決意しました。

【参考】「恍惚の人」有吉佐和子著新潮文庫1972年 新潮文庫から1972年に出版され話題に。1973年には森繁久彌氏主演で映画化され、そのごもたびたび舞台化。認知症および老年学をいち早く扱った文学作品として注目され、194万部のベストセラーとなった。

学際的な学問としてのジェロントロジーは、アメリカでも萌芽期で…当時は第二次大戦後、平均寿命が50代の時代から70代、80代に延びてきた頃でした。高齢化は、先進国においてもまだ新しい社会問題。アメリカは日本に比べて高齢化率は低いにもかかわらず、既に大きな大学には研究所ができ始めていた頃でした。

■Q3. 日本を拠点にすることになったのはなぜですか?

関:そんな秋山先生が日本に戻ってこられたのはなぜですか?

秋山:唐突にオファーがあって…はじめは帰るつもりはないと答えました。でも少し考えて…日本は、世界で最も高齢化が進んでいるにも関わらず、老年学という学問は日本の大学にはなかったことと、東京大学にも女性の院生が増えているにも関わらず、当時女性の教員がほとんどいなかった。そういうこともあって、自分にできることがあればと思い立ちました。夫とは、結婚するときに「それぞれがやりたいことをやろう、お互いにそれをサポートしよう」と約束をしていたので、私がやりたいならやったらいい、と送り出してくれました。

関:逆に、いずれアメリカに戻ろうということは考えなかったのですか?

秋山:研究環境はアメリカの方が圧倒的によく、最初は3年くらいで戻るつもりでした。その後も何度か戻る機会はあって・・・特に、定年の時、アメリカの大学には定年はないので、アメリカ政府からの研究費も取って研究スタッフの体制も整えたのですが・・・東京大学に「高齢社会総合研究機構」という老年学の学際的な研究機構を創設することになり、その立ち上げを依頼されて残りました。そのまま・・・気づいたら25年くらい経っています。夫も息子もアメリカにいて、私が単身赴任しているような形。もう諦めていると思いますけどね。(笑)

【参考】東京大学高齢社会総合研究機構  2009年設置。Gerontology(ジェロントロジー)、「個(個人のエイジング:加齢)」と「地域社会」の両面から諸問題の解決に取り組むために、学際的・総合的・実践的な知の体系【総合知】を創成し、分野横断型の課題解決型実証研究(アクションリサーチ)によって新たな知識と技術を地域社会に還元/実装する研究機構。

■Q4. 農業法人設立の背景を教えてください

関:最近新たに農業法人を設立されたと聞いて驚いています。背景にはなにがあるのでしょうか?

秋山:本当はもう少し早くに始めたかったのですが、時間的にも精神的にも余裕がなくて遅くなってしまったと思っています。ジェロントロジーに関して講演をしたり、書籍を書く際に、「今や人生100年時代、人生50年の時代と比べると、人生は倍になったのだから、人生二毛作も可能。定年のあとにもう一つの人生がある。まったくやったことのないことをやれる!」と人には言っているのに、自分はできていない!しかも、やりたいことがあるのに!と後ろめたい思いがありました。75歳になったときに、アメリカに戻って仕事をすることはもうないだろうと思って、セカンドキャリアを始めるなら今だと思いました。

当時他の活動でつながりのあった3人の60代の男性と一緒に農業法人を立ち上げました。それぞれのそれまでのキャリアを活かして…でも4人とも全員農業は初心者という(!)チャレンジでした。

【参考】samy'sfarm(サミーズファーム) 秋山先生の農業法人。埼玉県の日高市で、江戸時代からの畑が5年間休耕地になっている1,800坪の農地を借りて、農業を始めた

■Q5. 新しいことにチャレンジする不安にどう立ち向かうとよいでしょうか?

関:とはいえ!やりたいと思っていても、75歳というタイミングで新しいことをするのは勇気がいることだと思います。高齢でなくとも、若い人でも迷っている人も多いです。チャレンジをしたいが迷っている、という方々に向けて何かアドバイスはありますでしょうか?

秋山:それまで異なる仕事にチャレンジするのは、むしろ高齢期だからやりやすかったと思います。40,50代は本業が忙しい。リタイヤした後は、自分で自由にライフデザインができます。
今の若い人たちは、職業人生がぐっと長くなっていく時代を生きる最初の世代。不安を感じるのもわかります。そんなに長く働けるということは私たちが若いころには考えられませんでした。長く働かされるという見方もあるかもしれませんが、職業人生を自らデザインして、舵取りをして生きていく時代。うまくいかなければ軌道修正すればよい。夢をもって、能力を磨いて、誰も直面したことのない「人生100年時代」のパイオニアとして、是非存分に活躍して欲しいと思います。

夢と好奇心を失わずに、簡単に諦めなければ道は開けます。

■Q6. FCAJとの関わりの経緯とFCAJの魅力について、教えてください。

もともとFCAJの存在は知りませんでした。経済産業省の委員会で紺野先生とご一緒した際に、お声がけいただいたのがきっかけです。

私は、産官学民で人生100年時代の新しい生き方や社会の仕組みを共創する「鎌倉リビングラボ」を5年前に立ち上げました。こういった「オープンイノベーションの場」は、日本にはまだ少ないのですが、必要だと考えています。FCAJで、フューチャーセンターやイノベーションセンターなど、形態は異なれど、オープンイノベーションの場をつくることに、ビジョンとパッションをお持ちの方々と活動できることは、私自身にとって学びであると同時に、連帯する仲間がいることは大変心強いです。生活者が主体となって関わるリビングラボが一翼を担うオープンイノベーションのエコシステム構築に貢献できればと思っています。

聞き手・記事関駿輔(豊田通商)

記録・編集内原英理子(BAO)

2022年5月11日(水)9時00分~10時00分オンラインZoom

FCAJInterview03 村上卓也さん

■Q1. 「まち」をつくる仕事についたきっかけは?

生まれも育ちも東京都内です。実は東京を一回も出たことがないんですよ!今住んでいるところは神楽坂で、祖父から続く実家です。小学校までは吉祥寺の、まさにUR団地で生まれ育ちました。転職もせず、外の支社にも行っていないので、ずっと東京にいるんですよね…。実は、父親もURの前身である日本住宅公団でした。住宅に困窮する勤労者のための住宅、宅地の供給を事業としていました。都市計画に関心をもった理由に、その影響はあると思います。
【参考】日本住宅公団
戦前に存在し、GHQによって解体させられた住宅営団(同潤会)を参考に設立された特殊法人。

大学は、「造園学科」のある千葉大学を選びました。進学先を選ぶときに、「都市計画をやりたい」と思っていました。当時、都市計画のアプローチは、政策か、建築か、土木か…という選択と言われていたんですが、ランドスケープからも取り組めることを知り、これだ!と思いました。たぶん、「環境」という社会課題への関心が昔からあって、都市計画の中でもたぶん社会課題としての「環境」の意識に近いのがランドスケープだったんだと思います。入社から10年は、大学が造園学科だったこともあり、団地や再開発事業等の都市開発の外構工事の設計、工事発注を担当しました。その後は、都市開発の計画部門を担当しています。

日下:プロフィールには、地方に赴いて課題解決などもしていると書いてあったので、てっきり地方のご出身だと思っていました!東京出身だからこそ感じることはあるんでしょうか?

村上:基本的に、まちの課題、社会課題も、弱いところに出やすいです。たとえば災害が顕著ですが、災害が起きると、今まで闇に埋もれて来た社会課題がいっぺんに出てきます。弱いところから顕在化してくるというのが常だと思うので、どうしても経済を考えると、東京のような大都市より地方の方が出てくる弱いところが顕在化するのが早いです。それが徐々に全体に広がっていくので、地方の課題の処方箋を都市近郊でも使えるのかなと思っています。

■Q2. 「まち」の魅力や個性を知るために、どんな取り組みをされていますか?

まちづくりは、現地の人が関心を持っていないと、行政がやりたいから、ということではうまく進みません。課題になっているけれど、上手く表出できていないということがあります。それを一緒になって発見してあげる、というのが大事と思っています。

これには、コツがあるわけではありませんが、基本としてそのまちの歴史的背景の調査はきちんとやります。まち割りの歴史や、昔の航空写真をならべて、どういう風にまちがつくられてきたのかは必ず考えていきます。その上で、歴史上に起きている色々な出来事、経済的な背景も含めて紐解いていきます。それをもとにまちあるきをします。そして、行政の担当の方、まちで活動されている方、来訪者などにお話をきいていきます。

■Q3. 仕事をするとき特に大切にしていることはどんなことですか?

ブランチのトップになった時、スタッフに「関わるすべての人の幸せを1%以上あげよう」と言いました。

この言葉に行きついたのは、紺野先生と初めてご一緒した仕事がきっかけでした。「新虎通り」のコンセプトを考える有識者会議で、紺野先生と共に入っておられた前野隆司先生(慶応SDM教授)から、「幸福学」について教えていただきました。お金儲けは目的ではなくて、お金を得てどういう生活をするのか、どういう仕事をするのかが大事、という考え方です。それを聞いて、何をもって「シアワセ」と感じるかは、人によって違って構わないけど、人生のたくさんの時間を費やしている仕事において、シアワセ度を上げられなくてどうするんだ!と考えるようになりました。実は、会社の先輩から「上に立つことになった時にはビジョンを持って、部下に示さないといけない」といわれた頃で、ずいぶん考えてこれを自分のビジョンにしました。

また仕事を進める上では部下にはいつも「どんな仕事も楽しくやろう」、「なるべく違う分野の人と知り合いになろう」、「自分の頭で考えよう」、の3点をお願いしています。これらは、自分がやっていてよかった、と思っていることを挙げたものです。特に2つ目は、FCAJで痛感したことでもあります。自分の仕事で普段出会うのは建設、不動産、コンサル業界という狭い業界ですが、扱っていることは「社会」という大きな事柄で、他の視点を入れず、狭い業界の中だけで議論をしても上手い解決方法が見つかりません。FCAJに参加することで本当に実感しているので、若いうちからやった方がいいと感じています。この3つのことは、トップになる前、部長時代、課長時代から言っていました。何度も伝えているから、浸透しているかどうかはわからないけど…前述の先輩から、「仕事の心構えを伝えるときは、3つ以上はダメ、5つもあったら覚えられないから」と言われていたので、ちょうどいいのかなと思っています。(笑)

■Q4. FCAJで行われた活動で、印象に残っている活動を教えてください

EMIC調査で、国内と北欧の「場」の調査に行き、置かれている環境、状況によってこんなにも変化があることを気付かされたことです。北欧の「場」、いわゆるイノベーションセンターは、割と国主導で、大きな社会課題から入っています。日本は国レベルではきちんとした「場」はなく、イノベーションセンターなどは民間が先行して設置しています。社会課題解決のアプローチはやっているものの、「自社のリソースを活かして」が前面に立ってしまいます。違いは違いのままでいいとはいえ、圧倒的に違う感じがあり、話がかみ合わなかったのは印象的でした。

FCAJは、北欧を参考にしている部分が大きいんだなというのは実感しました。一方で、「イノベーション」ということで考えると、シリコンバレーやイスラエルなどのことも考えてみるのは面白いだろうなと思います。

今、日本国内の地方都市でイノベーション特区をつくる構想をすすめている例があり、産学官が連携して社会実験をやって認知してもらおうとしている動きに関わっています。現地の方々がどこまでジブンゴトにしていけるかによるとことが大きいので、注目しています。

日下:JSTで仕事をしていても、研究者に社会実装のアイディアがあったとしても、「場」がみつけられなかったり、繋がるべき相手が誰なのかがわからなかったりするので注目したいと思います!異業種の方々と対話していく力が問われる場所ですね!

■Q5. これからの「まちづくり」への関わり方について教えてください

仕事以外の、「ボランティア」のような形でまちづくりに関わったことはありません。自宅周辺の神楽坂のエリアでは、子どもが小さい頃は、地域のサッカーチームのパパ友の関わりなどもありました。大日本印刷傘下の印刷屋さんなども多くて、印刷業の方は多かったり、水道屋さんなんかもいて、小さくても一国一城の主、という方々はとても面白かったです。

3月にURを定年退職しました。5月の半ばくらいまではあいさつ回りなどがあり、それ以降2~3ヶ月あくので、全国にボランティアに出かけてもいいなと思っています。なるだけ、仕事として関係しなかったところがいいなと思っているところです。

どうしても仕事だと、「計画論」から入ったり、「上位計画」から入ってしまいます。今のまちづくりは、そこからのアプローチでは問題が解けないだろうと思っています。まちで活動されている方が、どういう思いで活動されているか、肌身で感じてみたいです。場所は4大都市圏じゃないほうがいいな。大分、宮崎、高知、徳島、鳥取、島根…みたいな、地方都市に興味があります。英語はしゃべれないので(笑)コロナもあるし、日本で行ってないところがまだまだあるので、国内をまわってみたいです。

聞き手・記事:日下葵(JST)
記録・編集:内原英理子(BAO)
2022年4月23日(金)14時30分~15時30分オンラインZoom

FCAJInterview02 高山千弘さん

■Q1. これまでのキャリアと、「哲学」に触れたきっかけを教えてください

恥ずかしながら、哲学には全く関心がありませんでした。エーザイでのキャリアの前半は、世界で初めてのアルツハイマーの治療薬を担当しました。臨床試験から、アメリカや日本を行き来して、治療薬を届けるだけではなく、認知症の方と家族の生活と人生を支えるところまで取り組みました。キャリアの後半は社長直轄の知創部で、理念経営に携わっています。「知創部」とは、知識創造理論を提唱された、野中郁次郎先生に命名頂きました。

理念経営をするためには、哲学が必要です。野中先生の影響から、哲学を学ぶために日本アスペン研究所(※1)に1週間の対話のセッションに行きカルチャーショックを受けました。特に、日本アスペン研究所の設立にも関わられた、今道友信先生(※2)に感銘を受け、そこから哲学に入っていきました。現在は、そのモデレーターを務めています。

※1日本アスペン研究所:各界のリーダーを対象に、「古典」を素材に、「対話」を通じて人間性への洞察、大局観、専門性を超える知性、判断力、決断力といった資質を磨くセミナー等を開催している一般社団法人

※2今道友信氏:日本の美学者・中世哲学研究者で「エコエティカ」(生命倫理による人間学・倫理学)を提唱した。

■Q2.「知識創造理論」を実践するエーザイのことを教えてください

エーザイには、患者様と勤務時間の1%を共にするというルールがあります。それは、野中先生の知識創造理論に理由があります。

知識創造理論の最初のモードが「共同化」です。次に、患者さんが持っている暗黙知を、何なのだろう?と考えて形式知にしていくのが「表出化」です。それを実行していくのは、一社、エーザイだけでは絶対にできないので、これを色々な方々、アカデミア、ガバメント、NPO、患者会、医師の団体などと連携するのが「連結化」です。自分の内面に落として、魂から実行しようという気持ちになるのが「内面化」です。

一番大事な「共同化」を、就業時間の中で行います。土日に個人的に取り組むのではなく、あくまでも就業時間の中で行うのは、「ビジネス」だからです。患者様と時と場を共にすることで、内在的な動機を受けます。内在的動機を受ける、とは、患者様の話を聞いて、赤の他人に話してくださったことに敬意を持ち、「あの家族を救いたい」という強い想いを持つということ。それができていると、目標が定まっているので、ビジネスとして実現し、患者様に戻す原動力になります。エーザイのビジネスはすべてこの知識創造理論を使っています。

■Q3. 患者様の生活に溶け込んでいく…その秘訣のことをきかせてください

日下:社内だけで、都内で地方の社会課題のことを話していても仕方がないので、地方に出かけて課題を聞いてきたいと思いますが、「東京の人が来た」という警戒心を持たれがちで信頼関係を築くのに時間がかかってしまうことも多く…気を付けていることがあれば教えていただきたいです。

高山:「どういう姿勢で患者様と向き合うか」については、知創部が軸となって事例を世界規模でシェアしています。事例をシェアしあうのはとても大切です。お会いする人の数だけエピソードがあります。相手の気持ちになって考えたことを、できれば言葉にして、相手の方にもシェアしていきます。そうすると、相手の喜怒哀楽の原点を見つけることができます。勝手に「こうしてあげられたらいいな」と思うのはエゴだと考えます。何年もこの方法をやってきて、このやり方は確かなのではないかなと思うようになっています。

■Q4. 課題の見えないところにこそ、入っていく…リビングラボの魅力とは何ですか?

知識創造理論を実際に実践していくのは、リビングラボだと考えています。課題があってそれを解決するのもひとつですが、課題がないところからはじめる方法もあります。課題がないところからはじめる…とは、地域に突如として入っていくという方法でスタートするということです。その一歩目は、自治会の会長さんなど。「何かお手伝いしたいんですけど」と入っていきます。何人かが集まってきて対話をし始めると、色々な話題が膨らんできます。次第にコミュニティ内部の方々から自発的に何をどうしたいのか話し始め、気づきはじめます。コミュニティ内部の方々が中心にならないと意味がありません。コミュニティが求めているニーズを企業が掴んでリソースを提供し、一緒に為していく・・・こちらの方がリビングラボの本筋だと思います。
「課題を解決したいです」というより、「お話を聞かせてください」と入っていくのがポイントです。課題があるのかどうか、どんな課題もわからないし、我々ができるかどうかもわからない。例えば、JSTを例にして言えば、「科学技術に困ってることないですか?」と言っちゃうのではダメです。それは「共同化」ではない。「共同化」のためには、心を開いて、目的を持ってはいけません。我々は、インタビューとか、アンケートはほぼやりません。アンケートに本当のことは書かないですよ。我々が求めるのは、「潜在化されている」見えないニーズです。どうやってそれを掘り起こすか。それをやるには「共同化」しかありません。

■Q5. リビングラボ活動を、どのように広げていきたいと思っていますか?

自分達が今暮らしていて、ただシアワセだ、だけじゃだめだと思っています。自分に何ができるのか?を考える機会が必要です。人間はみんな、パーパスをもって生まれてきますが、世の中に適合するがために、ビジネスに合わせているうちに、忘れてしまいます。でも、そのパーパスを取り戻す機会のひとつとして、「共同化」があると思っています。エーザイでは、「共同化」によって、社員ひとりひとりが持っているパーパスに近いところまで触れようとしています。リビングラボ活動を通して「共同化」をすることによって、コミュニティの住民にも、何ができるかを考えるきっかけになってもらいたい、それぞれのパーパスに気づいてもらいたいと思っています。
リビングラボは、内在的な動機に基づく、共同体的な「新しい資本主義」のきっかけになるのは間違いないと思っています。

■Q6. FCAJに集まる人達が、モチベーションが高い理由はなんでしょうか?

日下:FCAJに集まってくる方々は、内在的な動機に基づいている人、利他心の強い人が多いと感じています。ビジネスの世界では珍しいと思いますが、どうしてそんな場が作れているのでしょうか?

高山:内在的な動機を得るには、現場に行って、直接見聞きしないといけません。FCAJに参加している人達にモチベーションが高いのは、困っている方、助けを求めている方に直接会って話をしていて、既に「共同化」されているからではないでしょうか。

日下:FCAJに参加して最初の頃は特に、皆さんの話していることがよくわからず、上位の概念だと思っていましたが、それは現場に入っていなかったり、具体的なニーズを持っている人と接していなかったので、皆さんが話している言葉や文脈が理解できていなかったのだと気付きました。

■Q7. 哲学的思考…高山さんの子どもの頃から現在

子どもの頃から、病気の方に興味がありました。どんな気持ちなのかな?辛いだろうな…などいつも考えていました。どんな気持ちなのかなというのを知りたい、どうにかしたいという想いが強くて、それもあって「薬学」という方向を選んだのかもしれません。彼らから気づきが欲しい。彼らは本当にすごいです。哲学とは知らなかったけど、哲学的に考える癖があったとは言えるかもしれません。

哲学を学ぶようになって、カント、ヘーゲル、プラトン、パスカル…既に2000年前から同じことを考えていた人がいたことに感激しました。今、2~30人の哲学者が自分の頭の中にいて、何か決定するときにその中の誰かが降りて来てくれる感じがします。孟子のこの言葉、アリストテレスのあの言葉…自分を支えてくれています。哲学というのはそういうものである気がします。

聞き手・記事:日下葵(JST)

記録・編集:内原英理子(BAO)

2022年3月22日(火)9~10時オンラインZoom

FCAJ理事Interview01 村田博信さん

■Q1. どんなご家庭で育ったのですか?

生まれは栃木。父が生命保険会社勤務のため、全国転勤を経験し、都内に落ち着きました。弟が2人。父は定年まで同じ会社で働きとおしました。もし今の時代だったら違う考えを持っていたかもしれません。

■Q2. 理工学部から、新卒でITコンサルに進んだ決め手は?

経営コンサルティングの仕事をしたいと何となく思っていて、大前研一さんの本とか読んでいました。当時、まだインターンシップはマイナーでしたが、メルセデスベンツの人事部インターンする機会がありました。当時すでに、一人ひとりのMBO(個人の目標設定を行い仕事のプランニングをする)をしっかりと行っていて、面白いと感じました。それに、これからの時代ITとか知っておいたほうが良いなと思ったので、ITコンサルに。新卒で入社を決めたSAPはドイツの会社で、様々な会社の経営も知ることができるし、業務フロー全体を見ることができて、ITリテラシーもやれる、また、日本に入ってきたばかりで若手にチャンスが多く、いろいろな経験ができる会社だと感じました。

■Q3. コンサルに興味を持ったのはいつ?

大学1年生の時にはじめたバックパッカーの経験からだと思います。大学に入学した頃に読んだ沢木耕太郎の「深夜特急」がきっかけで、世界を知らなきゃまずいと思って夏に一人でタイへ。それを皮切りにインドやアフリカなど、毎年出かけました。父の仕事ぶりもみていたので働き始めたらしっかり考えることができないと思って、大学の間に長期間旅行に行ったり、ぼーっと考える時間をできるだけとるようにしていました。アフリカは、世界各国から若者が集まるスタディツアーで。ガーナの砂漠にひたすら木を植える。英語でコミュニケーションをとることが必須でした。そんな中で英語力も身に付けました。特別な留学などはしていないんです。

なかでも、将来の仕事としてコンサルを具体的に考えたのは、大学3年生の時に行ったインドでのこと。たくさん読んでいた本の中でも、落合信彦の小説が好きでよく読んでいました。一度きりの人生、いろんなことを経験して人生エキサイティングに、というノンフィクションが多いものの、先進的な技術のことがでてきたりとビジネスの要素もすごくあって。それで、様々なプロジェクトに関わりながら、経営に携わってみたいとアタマにあったんですが…その影響からか、ある日朝起きたときに、急にスパークしたんです!「自分のやりたいことは!コンサルという形でできるんじゃないか!?」って(笑)

■Q4. 行動して経験して得たものが多そうですね!

百聞は一見に如かずだと思います。今はVRでもいろんな体験ができるけど、直接行って、五感で感じるようなものは大事だと実体験から思います。インドの、マサラみたいなスパイスのにおいのすごさとか。帰国したら家族から「くさっ!!!」といわれたり(笑)。その国の料理は、その国で食べるのが一番美味しいし、その土地の、その気候を体で感じながら食べるのは本当によい経験になります。経験にはいろんな要素があると思いますが、実体験した経験は豊かだと思います。

■Q5. FCAJに繋がるキャリアパスは?

社会人になってから、縁があって華道、茶道をはじめました。やってみたらとても面白くて、なんで今までこういう機会なかったのかなと思いました。日本人に生まれたからには、好き嫌いとは関係なく、もっと日本文化や芸術の本質を教えるような機会があるべきじゃないか、感性を育む教育をビジネスにできないかと考え始めました。

母校の恩師のゼミ生に対して手弁当で茶道・華道・古武術・書道など…いろんな文化に触れる体験講座を企画、実施すると評判もよく、全学の文化講座に話が発展したことはモチベーションにもなりました。

FCAJとの出会いは、紺野先生とのつながり。紺野代表の「知識デザイン企業」という本に感銘をうけて、先生にメールしたことがきっかけでした(インタビュアーびっくり!!)。日本文化のことを考え行動をはじめたタイミングで、「これからの企業は感性大事、美意識大事」ということが書かれていて、まさにそうだと思いました。SAPでの経験のなかで、システム構築も一種のアートだと感じていました。同じ要件でも、コンサル本人の美意識で全く違うシステムができてしまう。ロジカルでありながら、感性が求められる世界だなということを思っていました。変なアートを作ってしまうとその後のメンテナンスが大変なうえに、結局使われなかったりする…そんな熱い思いを紺野先生にメールさせていただいたところ、「Future Center研究会を立ち上げるけど、一緒にやらない?」というお話をいただき、今に至っています。

■Q6. FCAJでのプロジェクトを通して、実現したい社会

ひとりひとりが将来に希望を持てる社会をつくりたいと思っています。できるだけ格差をなくし、どこに住んでいても、どんな状況でも、誰もがが自分なりの希望を持てる社会を実現したいです。
そういう中では、STEM教育だけでなくて、アートや文化を起点にしたサービスやプロダクトにつながるような人材育成もあるべきと思います。日本人の感性に詰まっている「文化」こそが、他国との比較の中でも強い点だと思うから。ビックピクチャーではあるが、「美しい国」にしていきたいと思っています。住んでいる人の心も、環境もプロダクトも美しい国。海外から、日本はなくしてはいけない、と思われるようなこと、それこそが国力だと思います。そのためには、まずは一人ひとりの美意識を上げていくことが大切だと思っています。

■Q7. キャリアの描き方について、若手社会人へアドバイスを!

20代の前半に、50歳くらいまでのロードマップを作成したんです。年収がいくらになっている、こんな仕事、プライベートや趣味…など。そのとおりにはなっていないけど、ロードマップを作ることで、こんな暮らしをしたいんだ、こんなことで社会に貢献したいんだということに気づくことができました。何でもないようなお誘いも意味があるように感じられ、顔を出したことで本当に自分の世界が広がったり、思いもよらないところで、将来のビジョンが軌道修正されていったりなど。あまりカチカチにプランを決めてしまわず、計画には余裕を持たせて、軌道修正を怖がらず進むとよいと思います。

 


インタビュー:2022年1月23日(日)9時~10時
オンラインZoom
聞き手:中山みなみ
記録・編集:内原英理子(BAO)

FCAJ理事インタビュープロジェクト実施中

FCAJには様々な分野で活躍されている16名の理事がいらっしゃいます。
FCAJBAOでは、FCAJメンバーに「FCAJ理事」のことを知っていただき、理事メンバーをいろいろな場面で“活用”していただきたいと考えています。そのきっかけとするために、2022年、FCAJ理事インタビュープロジェクトをすすめています。
FCAJ理事のイノベーションマインドがどう育成されてきたのか?普段見えない一面や、経験の裏側を聞き出していくインタビュー。
インタビュアー(聞き手)はFCAJメンバー企業の若手の方々に担っていただいています。本プロジェクトを通じて、若手の越境人材の育成の機会とも位置付けています。インタビューの記事は、FCAJホームページ「Team」中、各理事の紹介文にあるボタン[Interveiw]からご覧いただけます。


https://futurecenteralliance-japan.org/team
<実施済み>
1月 村田事務局長(インタビュアー 中山みなみさん)
3月 高山千弘さん(インタビュアー JST日下さん)
4月 村上卓也さん(インタビュアー JST日下さん)
5月 秋山弘子先生(インタビュアー 豊田通商関さん)
6月 島裕さん(インタビュアー UR都市機構松田さん)
8月 住田孝之さん(インタビュアー UR村松さん)