FCAJInterview04 秋山弘子先生

■Q1. どうしてアメリカの大学を目指されたのでしょうか?

父が銀行員で転勤が多く、生まれは広島、第二の故郷だと思うのは、中高時代、人格形成の時期を過ごした岡山市です。今に繋がる親しい友人もその時期にできました。

東京大学の大学院に進む頃、いわゆる「大学紛争」が起きました。「大学の古い体制を打ち壊す」と、安田講堂に立てこもって…機動隊が突入して…という歴史上に残るような事件が、目の前で起こった。教育や研究も止まってしまって、本当に様々な支障がありましたが、結局何も変わりませんでした。それで私たちの世代はある種の挫折感を味わったんです。多くの同期が、学ぶ場を求めて海外に渡りました。海外に渡った学生は、卒業するころには、元いた研究室の先生から就職先を紹介してもらって帰国、というのがよくあるパターンですが、私たちの世代は大学と抗争しましたから。ある意味で橋のたもとを切って、もう日本には帰らない、という決意をもって海外へ出たので、海外で研究者を続けている仲間は多いです。

私の場合、とりわけ大学へ悪い印象があったわけではないものの、女性の研究環境がアメリカのほうが日本と比べて、数倍よかったことは大きな要因でした。私は学生結婚をして、そのころすでに子どもが5~6ヵ月かくらいでしたが、夫と共によい研究環境を求めて、日本に帰らない覚悟でアメリカへ向かいました。

■Q2. 「ジェロントロジー(老年学)」を専攻された経緯を教えてください

学部生の頃は「心理学」を専攻していましたが、誰でも青年期にはモラトリアム…自分自身を見つけ出す時期ってあると思います。私はその頃、別に関心をもっていたのが農業と福祉でした。

「農業」は、親族にも農業をやっていた人はいないものの、夫婦で何もないところから創り出していくとか、自然の中で働くのはいいなと思っていました。大学3年生のころ、大学の友人のご縁で静岡のミカン農家で1カ月か2カ月ほど働かせてもらい、農業ってどういうモノかを体験しました。

もうひとつの「福祉」については、滋賀県にある知的障碍児の施設「近江学園」に、1カ月くらい一緒に住まわせてもらうという経験をしました。糸賀一雄先生の著書「この子らを世の光に」という本に感銘を受けて、糸賀先生に手紙をかいてお許しをいただきました。

【参考】滋賀県近江学園 昭和21年11月、糸賀一雄氏らによって創設された児童福祉施設。糸賀氏は「この子らを世の光に」と人々に語り掛け、知的障碍児・者の療育に力を注がれた。

そういう経験をして、色々考えた末、そこにすぐ入っていく決心はつかなくて、大学院にモラトリアムの延長みたいなことで進学しました。そう決めたら、大学が混乱状態になって、大学も世の中も大変なことになって、自分のモラトリアムなどそっちのけになってしまった。そういう流れでアメリカへ行ったというのが経緯ですね…

当時の日本の「心理学」は、人間の発達は青年期くらいまでで、そのあとは研究の対象になっていなかったのですが、アメリカに行ってみると、その先の中年期、高齢期の研究も進んでいました。しかも医学、経済学、工学、社会学…いろんな分野が一緒になった「ジェロントロジー(老年学)」という学際的な学問があることを知りました。

ちょうど私がアメリカに行った頃、有吉佐和子さんの小説「恍惚の人」がベストセラーになって、日本でも初めて社会問題として「高齢化」が認識されるようになったこと、思い起こせば自分がおじいちゃんおばあちゃんっこだったので高齢者に親しみがあったこともあって…ジェロントロジーを専攻しようと決意しました。

【参考】「恍惚の人」有吉佐和子著新潮文庫1972年 新潮文庫から1972年に出版され話題に。1973年には森繁久彌氏主演で映画化され、そのごもたびたび舞台化。認知症および老年学をいち早く扱った文学作品として注目され、194万部のベストセラーとなった。

学際的な学問としてのジェロントロジーは、アメリカでも萌芽期で…当時は第二次大戦後、平均寿命が50代の時代から70代、80代に延びてきた頃でした。高齢化は、先進国においてもまだ新しい社会問題。アメリカは日本に比べて高齢化率は低いにもかかわらず、既に大きな大学には研究所ができ始めていた頃でした。

■Q3. 日本を拠点にすることになったのはなぜですか?

関:そんな秋山先生が日本に戻ってこられたのはなぜですか?

秋山:唐突にオファーがあって…はじめは帰るつもりはないと答えました。でも少し考えて…日本は、世界で最も高齢化が進んでいるにも関わらず、老年学という学問は日本の大学にはなかったことと、東京大学にも女性の院生が増えているにも関わらず、当時女性の教員がほとんどいなかった。そういうこともあって、自分にできることがあればと思い立ちました。夫とは、結婚するときに「それぞれがやりたいことをやろう、お互いにそれをサポートしよう」と約束をしていたので、私がやりたいならやったらいい、と送り出してくれました。

関:逆に、いずれアメリカに戻ろうということは考えなかったのですか?

秋山:研究環境はアメリカの方が圧倒的によく、最初は3年くらいで戻るつもりでした。その後も何度か戻る機会はあって・・・特に、定年の時、アメリカの大学には定年はないので、アメリカ政府からの研究費も取って研究スタッフの体制も整えたのですが・・・東京大学に「高齢社会総合研究機構」という老年学の学際的な研究機構を創設することになり、その立ち上げを依頼されて残りました。そのまま・・・気づいたら25年くらい経っています。夫も息子もアメリカにいて、私が単身赴任しているような形。もう諦めていると思いますけどね。(笑)

【参考】東京大学高齢社会総合研究機構  2009年設置。Gerontology(ジェロントロジー)、「個(個人のエイジング:加齢)」と「地域社会」の両面から諸問題の解決に取り組むために、学際的・総合的・実践的な知の体系【総合知】を創成し、分野横断型の課題解決型実証研究(アクションリサーチ)によって新たな知識と技術を地域社会に還元/実装する研究機構。

■Q4. 農業法人設立の背景を教えてください

関:最近新たに農業法人を設立されたと聞いて驚いています。背景にはなにがあるのでしょうか?

秋山:本当はもう少し早くに始めたかったのですが、時間的にも精神的にも余裕がなくて遅くなってしまったと思っています。ジェロントロジーに関して講演をしたり、書籍を書く際に、「今や人生100年時代、人生50年の時代と比べると、人生は倍になったのだから、人生二毛作も可能。定年のあとにもう一つの人生がある。まったくやったことのないことをやれる!」と人には言っているのに、自分はできていない!しかも、やりたいことがあるのに!と後ろめたい思いがありました。75歳になったときに、アメリカに戻って仕事をすることはもうないだろうと思って、セカンドキャリアを始めるなら今だと思いました。

当時他の活動でつながりのあった3人の60代の男性と一緒に農業法人を立ち上げました。それぞれのそれまでのキャリアを活かして…でも4人とも全員農業は初心者という(!)チャレンジでした。

【参考】samy'sfarm(サミーズファーム) 秋山先生の農業法人。埼玉県の日高市で、江戸時代からの畑が5年間休耕地になっている1,800坪の農地を借りて、農業を始めた

■Q5. 新しいことにチャレンジする不安にどう立ち向かうとよいでしょうか?

関:とはいえ!やりたいと思っていても、75歳というタイミングで新しいことをするのは勇気がいることだと思います。高齢でなくとも、若い人でも迷っている人も多いです。チャレンジをしたいが迷っている、という方々に向けて何かアドバイスはありますでしょうか?

秋山:それまで異なる仕事にチャレンジするのは、むしろ高齢期だからやりやすかったと思います。40,50代は本業が忙しい。リタイヤした後は、自分で自由にライフデザインができます。
今の若い人たちは、職業人生がぐっと長くなっていく時代を生きる最初の世代。不安を感じるのもわかります。そんなに長く働けるということは私たちが若いころには考えられませんでした。長く働かされるという見方もあるかもしれませんが、職業人生を自らデザインして、舵取りをして生きていく時代。うまくいかなければ軌道修正すればよい。夢をもって、能力を磨いて、誰も直面したことのない「人生100年時代」のパイオニアとして、是非存分に活躍して欲しいと思います。

夢と好奇心を失わずに、簡単に諦めなければ道は開けます。

■Q6. FCAJとの関わりの経緯とFCAJの魅力について、教えてください。

もともとFCAJの存在は知りませんでした。経済産業省の委員会で紺野先生とご一緒した際に、お声がけいただいたのがきっかけです。

私は、産官学民で人生100年時代の新しい生き方や社会の仕組みを共創する「鎌倉リビングラボ」を5年前に立ち上げました。こういった「オープンイノベーションの場」は、日本にはまだ少ないのですが、必要だと考えています。FCAJで、フューチャーセンターやイノベーションセンターなど、形態は異なれど、オープンイノベーションの場をつくることに、ビジョンとパッションをお持ちの方々と活動できることは、私自身にとって学びであると同時に、連帯する仲間がいることは大変心強いです。生活者が主体となって関わるリビングラボが一翼を担うオープンイノベーションのエコシステム構築に貢献できればと思っています。

聞き手・記事関駿輔(豊田通商)

記録・編集内原英理子(BAO)

2022年5月11日(水)9時00分~10時00分オンラインZoom