FCAJ interview14 紺野登さん

Q1. 現在の研究のテーマを探求されるようになったきっかけや背景は?

(川原吹)幼少期に関心があったことなど覚えていますか?スポーツとか、文化とか…

(紺野)「アート」ですね。あえていうと幾何学が好きでした。幼稚園の時のことを鮮明に覚えてるんですが、先生がなにか問題を出した時に、パッと立ってチョークで黒板に図を描いて驚かれたんです。他には、「演劇」が好きでした。劇に出たり見たりするのが好きだったんですよ。前に出て試すというのが楽しかったんでしょうね。アメリカに留学していた高校時代に、ミュージカルに参加した経験もあります。

 中学校の時も幾何学が好きで、ユークリッド幾何学のテキストがあるでしょう?あれがとても好きで得意でした。大学の学部を選ぶときには、理系に進むとは決めたものの、数学科か、建築科か、物理科か、どれにしようかと思っていた中で建築を選んだんですが、幾何学から立体的に見る、みたいなことに関心が向いたのだと思います。

Q2.建築学科から現在の知識経営という方面に変わっていった転換点で、どんな決断をされたのでしょうか?

 そもそも、自分の性格として、優柔不断です。ただ、何か違う方向に行くと、本能的にむかむかするんです。どうしてなのかはわからないんですが。そういう時は代替案を考えるわけですが、自分で決められないから、人に相談するんです。そうすると、おもしろいこと言ってくれる人がいるわけですよ。「これだ!」といわれたら、それをやる。だいたいそのパターンでここまで来ました(笑)。大学の学科を選ぶ時も、先輩に相談して「数学はそんなに甘くないぞ」という言葉を参考に建築学科を選んだし、就職する時は、OB訪問で電通に行った建築の先輩に話を聞いて、広告代理店という選択もおもしろそうだ、と博報堂に就職を決めました。博報堂在籍時に、このままじゃダメだと感じて方向転換しようという時には、野中郁次郎先生に相談しました。本能的かもしれないけど、自分の中に答えはないんですよ。だから、ターニングポイントで「決断してない」です(笑)。相談した相手が「こうしたら」といってくれるのをまず真に受けてみるんです。

Q3.たくさんの選択肢のある現代、どうやって「選択」していけばよいでしょうか?

(川原吹)今は選択肢が多いので、自分の先々のキャリアをどのように選択したらいいか悩ましいです。
(紺野)大変ですよね。決断を間違えたらコケるし、後悔もするでしょう?でも、あの人が言ったんだから、まぁいいか、って。そういう感じ。ダメだったら他の選択肢をとればいい
(川原吹)楽観主義というか、気が楽というか、次のチャレンジに行きやすい気がします。(紺野)野中先生に相談した時に、たくさんの学者を紹介していただき、研究の一環として会社の出張費で著名な学者に直接会いに行くという武者修行をしました。これが良かった。マイケル・ポーター、ヘンリー・ミンツバーグ、ゲイリー・ハメル、フィリップ・コトラーなど、有名といわれている学者の講演を直接見に行ったり、会って話をしました。よく人が「あの人はやめた方がいいよ」なんていうじゃないですか。そういう時こそ直接会いに行くんです。会ってみると全然違う。「すごいぞ」といわれてる人も、会ってみると「なんだこいつ」(笑)という時もあります。
(川原吹)まずはやってみる、とか会ってみる、というのは大切にしたいなと思いました。

【参考】マイケル・ポーター (Wikipedia)
アメリカの経営学者(1947年-)ハーバード大学経営大学院教授。企業戦略や国際競争など、共創戦略に関する研究の第一人者として知られる。
【参考】ヘンリー・ミンツバーグ (Wikipedia)
実践を重視し、芸術的要素・右脳的要素を持ち合わせた経営学者(カナダ、1939年-)【参考】ハメル・ゲイリー (グロービス 参考ページ)
ロンドンビジネススクール客員教授(1954年-)。コンサルティング会社やマネジメント理論と実践を調査する非営利団体を設立。コアコンピタンスを中心とした戦略の革新を説く。著書“Competing for the Future(邦題『コア・コンピタンス経営』)”
【参考】フィリップ・コトラー(Wikipedia)
アメリカの経営学者(マーケティング論)(1931年-)。現代マーケティングの第一人者として知られている。

Q4..20代でやっておいたほうがよいと思うことはなんでしょうか?

 直観を大事にしないといけないんですが、現実を見ないと直観でも妄想で終わってしまいます。妄想で終わらせないためには「直接」体感することが大事です。例えば、直接人に会う、ということを重ねてくると、だんだん人を見る目ができてくるように感じる。どんな「偉そう」にしている人も、虚勢を張ってるだけの人かどうか…といったことが直観的に見えてくるようになります。直接人に会うというのは、直観を客観的に鍛える訓練だと思ってもいい。僕はその頃はもう30代の初めだったので、「20代でなければいけない」とは言いません。若いうちにいろんな人に直接会うのは大事です。

 もうひとつは、20代のうちに、自分が起業するときのアイディアなど、おもしろい構想をたくさん作っておくことです。「在庫」として。イノベーションのアイディアが生まれるのは、だいたい20代なんです。20代がよくて30代がダメということではないのだけど、20代のうちに考えたアイディアを持っている人が後で起業するんです。20代のうちにいろんなところに首を突っ込んで興味を持ち続ける。そうすると、10年20年経った後、もうイノベーションとか、新しいアイディアがでてこないな、というときに、20代の頃考えていたことが結びついたり、考えが戻ってきたり、組織と出逢ったり、同じような考えを持っている人と出逢ったり、それがまた花咲くことがあるんです。

(川原吹)目の前の仕事をつい優先してしまいますが、いろんなアイディアを想像することは今のうちにやっておいた方がいいんですね。
(紺野)やっておいた方がいいですね。そういう時間を、わざわざでもつくった方がいい。海外に行く、旅行に行く、自分の趣味をやる、そういうところに積極的に投資した方が良いです。

 日本の場合は、若い人が非常に抑圧されているんです。今の若手社会人の世代をZ世代といいますね。1993年頃から2010年頃生まれの方といわれてますけど、世界の人口比率でいうと30%くらいなんです。ところが少子高齢化の進む日本だと16-7%しかいない。なんと、世界標準の半分しかいないんです。これからの未来をつくるぞ、という世代が、日本ではマジョリティになれないんです。これは相当損してますよ。みんな税金は年寄りの政策に使われて、若い人がもっと騒ぐべきなのにデモもできない。海外の方がいい、といっているわけではないのです。でも、どんどん海外に出て、世界の状況を体感したほうがいいということです。


FCAJ interview13 石川貴之さん

■Q1.「都市計画」の道に進んだきっかけを教えてください

地元は山口です。祖父が大工で、祖父が自らの手で親戚の家を建てていく風景を間近で見て育ちました。そのため、子どもの頃から建築の設計には興味があり、特段の抵抗もなく建築を志していました。高校卒業後、九州大学の建築学科に進学。大学院まで一貫して設計を学んで、就職も建築設計志望でした。ゼネコンの設計部を志望したのですがご縁がなく…、どうしようか悩んでいる最中、大学の同期から日建設計が「都市計画」で人を探しているという話を聞き、早速応募してご縁をいただきました。大学の研究室で、九州の田舎のまちづくり再生計画を経験したこともあって、都市計画を全く知らなかったわけではなかったのですが、設計を志望していただけに、就職当初は都市計画の専門用語がわかりませんでした。専門用語が理解できないなんて恥ずかしくて誰にも言えないし、当時はインターネットもなかったので、会社の図書室に入りびたって、都市計画用語集を読んで、間に合わせの知識をインプットして仕事をしていた記憶があります(笑)。

 

■Q2.10代20代の頃に没頭していたことがあれば教えてください

小学校からずっとバスケットボールをやっていました。小学校の頃は全国大会に出場しましたし、高校3年生の頃は、関東の強豪校からスポーツ推薦を頂きました。でも、スポーツで身を立てるほどの自信は全くなく、学業優先で大学を、そして建築を選択しました。ただ、大学時代も趣味でバスケットを続けていましたし、日建設計でも、40歳くらいまでは日建大阪のバスケット部キャプテンをやっていました。

実は息子も小学6年生から高校までバスケットボールをしていましたので、中学1年頃まではコート練習に付き合ってもいました。そんな息子も今は大学院で建築を勉強しています。勧めたわけじゃないのに、子どもはへんなところばかりまねるもんですね(笑)。

 

■Q3.「都市計画」の面白さ、仕事も魅力をどういうところで感じますか?

まちづくりプロジェクトに、コンサルとして参画することを経験してきましたが、まちの方々がすごく仲良くなってスムーズに計画が進むことは極まれで、本気で喧嘩になることなど、関係者間の話がかみあわないことはとても多いです。そんな時に、我々コンサルは、各々の気持ちや考えを丁寧に読み取り、「翻訳者」になって調整していきます。時に直訳せず、意訳することで真意が伝わることもあります。自分自身はこうしたコンサルティングの役割や進捗プロセスがすごく楽しくて、一歩ずつステップが上がっていくことを肌感覚として感じられることにやりがいを感じます。何となく頼ってもらえることで、プロ意識も高まっていって、コンサルは商売でありながらも、まちづくりの当事者として参画した気分になれて、よかったなと思えるんですよね。まちづくり、都市開発の魅力、合意形成の妙、みたいなものに興味がある人にはこの仕事は向いていると思います。

一方で、会話の仕方を間違えたな、資料の書き方を間違えたな、などの後悔は何度もあります。今は現場から離れて、プロジェクトを俯瞰的に見る立場になり、若手の仕事の進め方をみて自分の経験上から少し先が見えることも多いです。「失敗することも大事」とは思いつつも、早い段階でアドバイスをして、いち早く火消しに回る、ということに注力して、若手の後悔を少なくする手伝いはできているかなあと思っています。

 

■Q4.仕事をする上で大切にしていることはありますか?

やっぱり、「共感」ですよね。どんなプロジェクトでも関係者の目的、目標はそれぞれです。そんな中で、関係者が同じ方向を向くことができる共通項をいかにつくるか?プロセスをどうデザインするか?というのが、僕らのようなコンサルの役割であり、存在意義だと思っています。共感を呼ぶ目的や目標を、誰に対して、何をつかって、どうやるか?、絵でみせたり、文章でみせたり…活動の根底に、「共感」が据えることが、とても大切だということです。規模の大小やプロジェクトの局面を問わず、どのようなプロジェクトでも同じだと思います。たぶん、「イノベーション」でも「共感」を真ん中に置くというのは同じだと思います。FCAJの目的工学のアプローチも、自分自身のまちづくりの経験と二重写しになることを多く感じます。「大目的」というのは、僕らのやるまちづくりの「コンセプト」や「ビジョン」のこと。それには必ず小目的や中目的がぶら下がっています。まちづくりに関わるみなさんの多くで、小目的や中目的は多少違っていても、「コンセプト(大目的)」を設定することによって、はじめて「共感」や一緒にやっていく共通項を見つけられることがよくあります。日常の仕事とイノベーション活動は、本当に同じアプローチをしているなと思います。

 

■Q5.若者にどんなことを期待していますか?

三塚)若手が強い目標を持って入社しても、会社の長い歴史と照らし合わせるとあわないこと、ズレてしまうこともあり、すり合わせるのが難しい…とおもっているうちに入社した時のモチベーションが下がっていくといったことをよく聞くのですが、そんな若手に大切にしてほしいことはありますか?

石川)まずは、すぐに諦めないこと、社会とか会社を見切らないことです。失敗しても、失敗から学んで、蓄積して、どう乗り越えていくかが経験になっていくと思います。駄目だからといわれて、すぐに辞めるのではなく、攻める方向を変えるとか、仲間を増やすとか、自身のモチベ―ションを少しでも行動に移していく様(さま)が大事です。したたかに進んで欲しいなと思います。

今の若手は、周りを味方につける術は僕たちの頃と比べて圧倒的に長けていると思います。同期や同年代どうしの水平な付き合いだけでなく、先輩や後輩を巻き込むというような垂直な付き合いも大事にしていけば、巻き込み力と情報収集力が高い若手に対して、僕らの世代は全く太刀打ちできなくなると思いますよ。

三塚)Z世代はSNSで繋がりあっているので「共感力」が高いことが知られていて、それが悪い方向のスパイラルになることもあります。逆に良いスパイラルになる、モチベーションを上に押し上げるような仕組みや制度があった方がよいと思うのですが、どうでしょうか?

石川)誰もが平等に使える、納得感のある仕組みをつくるのは難しいし、逆に会社に明確な仕組みや制度があったら、その枠の中でやらなくちゃいけないってことが制約になり、かえって窮屈だということになるかもしれません。万人に刺さる仕組みができたことで、結果的に誰にとってもつまらない仕組みになってしまうことも多いです。

詳細な仕組みではなく、ちょっとしたハードルをつくって、そのハードルを越えてきた人を応援するというものは割とつくりやすいと思います。若手の「共感力」と「行動力」を生かして、個々の実績をエビデンスにしながら、どのようなハードルの内容や高さを設定するとモチベーションを上に押し上げることができるかということを考えていくと上手くいくのではないかと思います。

 

■Q6.FCAJをどのように活用していきたいですか?

行政と民間の橋渡しをするという役割でFCAJの期待は大きいと思っています。そのためには、FCAJが、多くのイノベーション拠点についてのEMICリサーチをした結果を、ガイドラインのような一般解化して情報発信する、その先の着地点としては制度設計提案をするということができるとよいなと考えています。民間ができること、やりたいことと、行政がやらなくてはいけないことなど、様々な関係者の立場を理解して、イノベーションのための具体的な仕組みとして提案する旗振り役をするようなイメージです。

そうすると、企業から提供してもらった情報を基にイノベーションを興し、企業のフィールド拡張につなげられるというプルーラルセクターとしての本来の役割が担えるのではないでしょうか。そのための地道なコンテンツづくりや、課題提供の必要があれば惜しみなく力を使っていきたいと思います。

FCAJ interview12 齋藤敦子さん

■Q1. 小さい頃はどんな子どもでしたか?

 デザインや絵は子どもの頃から好きでした。アートとかデザインの仕事がしたいと漠然とした思いがありました。妄想をするのも好きで…、例えば星をみながら「今見えているあの星の光は、何百年前に光ったやつだろう…?」とか。少しずつ知識が増える中で、日常の出来事と知識を結び付けてあれこれ考えるのが好きでした。旅も好きでした。小学生の頃、うちでは修学旅行とは別に一人旅に出ていいという制度があって。地元新潟から船で北海道を一周するツアーに参加しました。フェリー乗り場で親に「さようなら、いってきます!」と、船から手を振った記憶が残っています。大学は美術大学に進学し、立体デザイン学科でモノから空間まで、広くデザインを学びました。就職先は、美術系か、建築設計のインテリアか、家具をつくるプロダクトデザイナー、というのが普通の選択肢で、オフィスのデザインは地味に思われていた頃でした。人がやらないことをしたい、と思いオフィス設計の道へ。人間の行動や働く場所にも興味があったからです。当時は、バブル崩壊直後でしたが、まだどんどんオフィスビルがつくられて、オフィス設計は需要がある中でキャリアをスタートしました。入社してみると、周りは「デザインしたい」人が多かったけど、自分は「オフィス」とか「住む」とか、それぞれ違うビルディングタイプがあることに疑問を感じました。家で朝起きて、1時間かけて通勤して、オフィスで8時間いて、週末は全然違うところで遊ぶ、ということに違和感があったというか。素朴に「オフィスってこのままなのかな?」と考えながら仕事をしていました。そうしているうちに、会社の中に「もっと人間や社会、未来のことを考える」という視点の新規事業部門が立ち上がりました。まさに「きたきた!」という感じで、FA制度を使って異動し、紺野先生の提唱する新しい場の概念に出逢っていくことになりました。

■Q2.「場」に関することに関わっていった経緯を教えてください

2000年代になってから、「新しい働き方」を求めて「新しい場」が欲しいというニーズが急速に増えていきました。KOKUYOにも、場をつくりたいという相談が持ちかけられるのですが、誰も経験したことのない「新しい場」をつくるのはとても難しい。オフィス設計の専門家…のはずの自分の中に「専門家ってなんだ?」という気持ちがわいてきました。

仕事で「場」を設計する中で、原体験になっている経験があります。施主からの希望で、人がワイワイ集まるように…と、オフィスの真ん中にコーヒーマシンを置いて、ピクニック場みたいな床にして、やぐらを組んで、素敵な家具を置いてみたりして…と設計した、一見ステキなオフィスが、実際に観察するとうまく使われていないんです。社員にヒアリングをしてみると、「サボってると思われるから使えない」といった意見がでてきました。ただ見た目がカッコよくて、素敵なだけではいけない。なぜそういう場所をつくりたいのか?から設計しないと「場」は活きない、と痛烈に感じました。

そういった経験を重ねていた頃、紺野先生から「場の研究会」のお誘いがあり、最初から参画しました。この研究会がFCAJの前身にあたります。たまたまだと思いますが、当初のメンバーはみごとに異業種の集まりでした。いろんな視点を持って集まった人たちが、教える教えられるの一方方向ではなく、みんながフラットに学びあう形ではじまっていきました。

■Q3.FCAJの他にもいくつもの社外活動に参加しておられますが、会社にはどう説明しているんですか?

KOKUYOでの仕事で、オフィスや場のリサーチをしているので、世界的なトレンドや、どんな団体がどういう活動をして社会的インパクトを出しているか?は掴んでいます。その中で「ゴールに向かって違う方向から登る人たちが、どこかで出会うと上り方が早くなる」という感覚を持つようになりました。例えば、建築と医学とか、一見違うように見える分野が、サステナビリティやSDGsという広い視点で見たとき、つながりがあって、そこが解決の糸口になる感覚です。

 だから、会社に短期的な利益をもたらすわけではなさそうにみえる人達との関わりが必要だ、と確信しています。会社には、「将来的に会社にいいことがあるらしい、いや、あるに違いない!」…と説明をして、社外活動への参加の許可を得てきました。まあ、許可というよりも実験というほうが近いかもしれません。私の場合、KOKUYOという会社の方向と、自分の方向がそんなにぶれていないのもポイントです。例えばFCAJは「社会」を捉えています。自分の中には利益を追求する「企業」的視点があるけれど、FCAJメンバーの方々と「社会」の視点で議論を進めていっても、あながち根っこは違わない。FCAJに限らず外部組織で活動すると、そういった様々な視点を持つことができ、自分の立ち位置ややりたいことを考えるのに役立ちます。KOKUYOの中には、「ヨコク研究所」【参考】https://yokoku.kokuyo.co.jp/という、現業とは違うことやっている人もいます。どんな会社にも、公式・非公式でもそういう人はいると思います。会社としてやらなければいけない仕事はありますが、チャンネルをたくさんもつことで、やんわり自分で耕すうちに、自分が社内でやれることもすこしずつ広がっていきました。社内にロールモデルなどはいなかったけれど、ここまでくると会社の中でも、「敦子さんだからね」と何となく認めてもらえることも増えました。

 FCAJの活動は、完全にボランティアの社外活動、ではなく、会社の目標にもFCAJの活動を書いて、会社へフィードバックしてやっています。「企業」的視点からみると、すぐに「それでいくら儲かる?」となりがちですが、長期的・社会的な視点からアイデアを生み出すことは、会社の将来には不可欠です。だから、よくコミュニケーションをとるようにしています。

■Q4.本当に思うことを言える場づくりとはなんでしょうか。つくっていてポイントだと思うことってありますか?

 FCAJでは、肩書を外して語り合える場をつくっています。参加するメンバーがだんだん慣れてきて、「FCAJの場なら言える」と思ってくださる人が多くなってきました。個人の思いとありたい社会像、そのために会社は何をすべきかというシナリオも一緒に描けるんです。FCAJでは互いの会社のことを本気で考えたり、いろいろなアイデアが飛び交います。でも組織に戻ると、組織の理論やヒエラルキーに縛られてしまう。ただ、だんだん組織外のフラットな場で議論した「温度感」や「社会感覚」みたいなものの心地よさを実感してくだされば、会社の中で恐る恐る言ってみる、みたいなことができるようになるんではないかなと思います。人によっては「仕事」といえば会社員という肩書一本という人もまだまだ多いです。FCAJのような社外の場に行っても会社員という肩書を外せないと、絶対に面白くなくなってしまう。「仕事」の中にもいくつかの自分の顔を持てるようになるといい。曖昧な自分の置き方、在り方がとても大切です。ただ、私自身も今でも試行錯誤しています。若い世代の人が外部活動に来たくなるように、「大変そう」と思われないようにすることも大事にしています。

■Q5.FCAJの若手へのメッセージをお願いします。

 私自身の仕事をする中でのバリューや目的は、「もっと住みやすい」「学びやすい」「居心地がいい」という「場」をつくるデザインをしたい、というところにあります。個人、企業、団体でやる…など選択肢がある中で、自分は「企業」でやるのも面白いし、FCAJのように外部の団体で、NPOなどでやる面白さもあると思っています。
 今、SDM(システムデザインマネジメント)の大学院にも通って、修士が終わり博士課程に進んでいます。大学院へ進学したのは、「学び直し」ではなくて、ミライをつくる研究を突き詰めたかったから。会社員として、会社の目標の下だけで生きることにもともと違和感があったんです。また、国の調査で「産学連携はうまくいかない」と言われるけど、なぜうまくいかないのか?じゃあ、自分がそちらに身を置いてやってみよう、と思ったからです。やってみないとわからないから、最初は気楽にはじめてみます。やっぱり大変だった‥って事も多いですが、いろんな自分がいることに気付いて、ぜひみなさんにも何か新しい体験をして欲しいです。
 それから、もっとたくさん話して欲しいと思います。最近は、若手のメンバーをワークショップに巻き込んで、その時々どう感じたか、よく意見を聞くようにしています。一般的に40代後半~50代くらいが役職も高いから発言力が強くて、その価値観でまとまろうとすることがよくあります。でも、20代や高校生の「今」への感覚はとても大事です。若いから、経験が浅いからと思わず、だからこその違和感を大事してください。私は、そういう話がしやすい場をつくっていきたいです。

FCAJ interview11 仙石太郎さん

■Q1.どのような幼少期、学生時代を過ごしていましたか?

父は石炭火力ボイラーのエンジニアをやっていました。神戸で生まれたのですが、アメリカの提携先に技術を学びに行くことになり、家族で5歳までアメリカで暮らし、帰国してからは東京に住んでいました。姉と弟の三きょうだいの真ん中です。

帰国して、地元の小学校に通うのですが、集団登校を引率してくれる上級生の名前をいきなり呼び捨てにしたことで、ひどく怒られたことがいまも記憶に残っています。日本では年上をファーストネームで呼んではいけなかったのです。

学生時代は150人くらい部員のいるテニス同好会の主将をしていて、「経済学部テニス学科」みたいな生活でした。ほとんど授業に出ずにテニスコートに直行していました。

何せ80年代後半はバブルの直前で、日本企業は世界で敵無し、世間全体が盛り上がっていて、楽しいことがいっぱいあったんです。とにかく遊ぶことしか頭にありませんでした。これまでインタビューを受けられたFCAJの理事の皆さんとは、まったく正反対。絵に描いたような劣等生でした。

就職活動の結果、富士ゼロックスにどうにか入れて頂いたのですが、当時はメーカー直販体制を敷いていて「営業ノルマが厳しい会社」として知られていました。実力で勝負するビジネスの世界に足を踏み入れて、学生時代の甘い気持ちが一瞬で吹き飛びました。

■Q2.会社に入って、どのように意識が変わっていったのですか?

新卒研修はハードでした。例えば、取引関係のない競合先の顧客リストを200件渡されて、商談機会につながるかどうかを、飛び込みスタイルで調査してくるというコンテストがありました。名刺すら与えられず門前払いの状態から、一歩ずつ壁をクリアし、「わらしべ長者」のように有益なビジネス情報をつかみ取る方法をあの手この手と考えて実践する、皆で知恵を絞る…といった訓練です。いま考えるとRPGのようですが、当時はそんな余裕はなくて必死でした。

学生の頃は何もしない人間でしたが、会社に入って、自分で考えて行動し、結果につなげるという面白さに気づきました。アメリカのゼロックスからいろんな営業のやり方を持ってきていて、顧客の気持ちを推し量る購買心理学が使われていたし、社会的な観察力(働いている現場をみる力)も、この時に養われたと思います。

そんな研修を受けたあと、最初に配属されたのは名古屋支店でした。とにかく泥臭くて「営業は足で稼ぐもの」、「ライバルより1つでも多くお客様に訪問するもの」、「相手の懐に飛び込んで熱意を伝えるもの」というスポ根漫画のような現場で育ちました。

実働が始まると、いきなり営業実績が同期入社のなかで1位になり、中部地区でもトップ10に入って自分が一番驚きました。その後も営業としてのキャリアは順調でした。

しかし、「営業は一に行動、二に熱意、三が根性」という非合理的な考え方には、ずっと違和感を持っていて、4年目になると、もっとロジカルで知的なセールススタイルにできないか、模索するようになりました。入社7年目の1995年の秋に、「人材開発センター(東京)に異動させて欲しい」と、当時の支店長に直談判をしたところ、運よく願いを叶えていただき、未来のマーケターや営業リーダー開発を新たに担当することになりました。

■Q3.知識経営との出会いを教えてください。

1997年ごろに出版された野中郁次郎先生の本「知識創造企業」に出逢ったのが、今のキャリアに繋がる大きな転換点だったと思います。先輩社員に薦められたピータードラッカーの「ポスト資本主義社会」にも「知識経済社会の到来」と書いてあり確信しました。

1999年の暮れに、「ナレッジマネジメントのコンサルティング事業(KDI)の立ちあげ」の社内公募があり、すぐさま応募しました。当時の富士ゼロックスには、上司に相談せず、部署異動の公募に応募ができる「FA制度」があり、論文と、それまでのビジネス実績を提出して、面接に受かれば異動が叶ったんです。運命的だったなと今でも思います。異動した先で、野中先生や紺野先生と日常的に対話をして、仕事を進める夢のような毎日が始まったのです。現在、FCAJで進めているEMIC調査、場のオーディットや、ベンチマーキングのようなリサーチサービスもこの頃始めたことがベースとなっています。後にFCAJの理事になられる皆さまとの交流もこの時にはじまりました。

■Q4.大変な時を乗り越えるときに、立ち返る考え方はありますか?

営業や人材開発しか経験してこなかった人間が、突然コンサルタントを名乗り、しかもチームのマネジャーとして経営者と対話できるようになることは簡単ではありませんでした。クライアントの難しい課題を前にして、途方に暮れたことは一度や二度ではありません。人生で初めて自分から学習するようになりました。

メーカーの一部門という制約もあり、メンバーの長時間労働を許容するわけにもいかず、自ら被ってしまうことも多かったです。犠牲的精神を意識するのは、カトリックの洗礼を受けた影響かもしれません。

上手くいっていない職場を見ていると、51対49でいいから、その1%分を利他側に振ることを心がけるといいのに、と思うことがあります。人間はわがままな存在ですし、自分が一番大事だということを隠す必要はないけど、利他の精神を持っていた方が、人との関係や人生もうまくいくんじゃないかと思います。

■Q5.FCAJで今後やりたいことを教えてください

FCAJほど本気で「知識創造の場」を運営している参加者が集まっているコミュニティは他にありません。すべての場をつなぎ、目的に応じてみんなが利用し、さらにその先にある知識資源にお互いにアクセスできるようにしたいです。

「場」という考え方は、日本発で研究・発展できる余地が大きく、一番になれる可能性があります。「場のネットワーキング」を通じて、知識経済社会の実現に貢献したいと思います。

■Q6.FCAJの若手にメッセージをお願いします

どうやって第三者的に自分を保つかというのは大事だと思います。会社という組織の中にいると、社会やお客様より、社内の論理でものごとの判断を決めてしまうことがあります。うちにではやる余裕がないとか、そんなことやっても会社の得(売上)にならないとか。忙しさを理由に、やらないとか、無駄だからやめとけとかいう人はとても多いです。なにがそういわせているかというと、「大きな視点が欠けている」ことではないかと思っています。視点は会社の外に置くべきです。会社の論理側に軸を置かないように、意識して自分を保ってみてください。会社の外に視点を置いて、判断軸を持つ、自分を見る、といった癖をつけたほうが、将来的に「使える人物」にはなると思います。

「使える」というのは、メタ知識のことです。メタ=超越。専門性がないから問題が解けないのではなく、専門性を持った人を連れてこれないから解けないのです。どんな難問にあたって、どんな立場になっても成果を出す人というのは、その専門性に通じているのではなくて、問題の解き方とか、人の動かし方といった、メタ知識、メタスキルが高いのではないかなと思います。

FCAJ Interview10 山際邦明さん

■Q1. 小さい頃の印象的な出来事で、いまに繋がっていることはありますか?

地元は福島県の中通り、宮城県境に近いところです。小学生の初めの頃、家の目の前の道路でオートバイにはねられたことがあって。怪我は大したことなかったのですが、1カ月ほどたったころ、ふと「自分が右に行くか左に行くかで、未来が変わるんだ…」というイメージが降りてきたのを今でも思い出します。何も考えずに家を出て事故に遭い、生死がよぎったのかもしれません。以来、「自分で選択する」ことの大事さについて強く意識するようになりました。

 理不尽なことも大嫌いでした。当時の地方はどこも方言がきつくて、全国的に標準語を広げようという動きがあったようで、地元の小学校でも毎月、方言を使わず標準語で話せた子が表彰される「ことばのよいこ賞」という制度がありました。私は父が中学校の教員で、家で標準語を指導されていたため、賞をもらえていたんですが、ほとんどの友達は毎月、開始後半日もしない間に方言が出てしまう。標準語が正しくて、方言はいけないかのように評価されることに理不尽さを感じていたんだと思います。5年生の頃、友達がつい使ってしまう方言を分析して、パターンに分けてレポートにしたんです。これには先生たちにもびっくりしていましたし、今でも同級生からあのレポートはすごかった!と話題になります。

 性格でいうと、通信簿の「根気強さ」には全く〇がついたことがなくて。単純作業が苦手で集中力が続かない、嫌いなことをやるのが我慢できない、逆に好きなことには夢中になる、というのは相変わらずだと思います。

 

■Q2. 新卒で豊田通商を選んだ理由をお聞かせください。

就職活動は、オイルショックの頃でした。大学は紆余曲折があって、法学部を選んだものの好きになれず同期が選ぶような就職先にはまず興味がありませんでした。

 実は、美術や文学が好きで、大学時代も高校時代に文芸部長だった他の学部の友人たちと、短い小説や詩を書く活動をしていたこともあって、「感性」を大事にしていましたし、言葉を洗練していくことも好きでした。そこで、まずは広告代理店のコピーライターを目指し、最終面接まで残ったけどしゃべりすぎて落ちてしまいました。それで、次に興味を持っていた商社に。なんで商社なのか?というのも、自分らしい理屈で、メーカーさんのように、物事を真正面から深堀りするのではなくて、ビジネスを横から、端っこから、間から見て、何ができるかを考える仕事だと思ったから。それから、自分の「根気強さ」に限界があることをわかっていたので、入社してから選択肢の幅がありそうなところに興味を持ちました。しかも、当時の豊田通商は、東証一部に上場したばかりで、若手の活躍の可能性が大きかったこと、会社としてまだ色がついていなかったのも魅力でした。

 

■Q3. 仕事で最も印象に残っているエピソードを教えてください。

入社して10年目ごろにアメリカに赴任し、7年間駐在、鉄鋼事業の立ち上げを担当しました。当時、アメリカでは豊田通商というブランド力は全くなく、現地で大卒の社員もほとんど採用できない頃で、本当にがむしゃらに働いて、みんながついてこれなくなったことがありました。正直、パワハラまではいかなかったと思うけど、狂気の世界に近かったと思います…。胃潰瘍になったのにも長い間、気づきませんでした。

 その頃、現地社員の前で「俺が3人いたらできるのに!」という失言をしてしまいます。でも、それがひとつのきっかけになって、現地スタッフの本音を聞くことに繋がり、多様なスタッフの個々の強みを組み合わせたマネジメントの大事さ、共に目標設定をすることの大事さに気づくことができました。その結果、知名度のなかったところからはじめた事業も、実際に取引先からNo,1の評価をもらうまでに成長させることができました。日本に帰国することになった時に、この経験から、多様な人材の潜在能力を最大化することに貢献したいと自ら希望し、人事に異動しました。

 

■Q4. 仕事をするうえで大切にしてこられたことは何ですか?

仕事で厳しい状況にあった時にいつも思い浮かべるのは、格言とかではなくて「詩」です。

    おれは今知っている、おれに何が必要であるか、
    濡れずに海から躍り出ること。
    明日おれは鮫であるかもしれないのだ。
    だが明日はおれは風であるかもしれないのだ。
    旗であるかもしれないのだ。     
              大岡信の詩集より

 40代の一番厳しい経験の頃、この詩の「濡れずに海から躍り出ること。」という一節が、常に頭をよぎっていました。しんどいことを人のせいにして、自分自身が染まったり、影響を与えられて、取り込まれていかないように。人のせいにしないで、未来に向けて今、自分で選択する。その環境や周囲の人からも様々なことを学ぶけど、染まらず「濡れずに海から躍り出る」イメージを大切にしていました。言われてやるのは「精神的な奴隷」のような気がします。ちゃんとやれても、褒められても、嬉しくない。外からのミッションにしても、自分の中で掘り下げて、更に自分の感性・直観・価値観・志で捉えなおす。それが「ジブンゴト」としてとらえなおすということだと思っています。

 

■Q5. FCAJで今後やりたいことを教えてください

豊田通商にはいわゆる「イノベーションの場」のようなものはなかったのですが、当時FCAJ理事であった4人の方とそれぞれ別の長いお付き合いがあったご縁でFCAJとの接点が始まりました。

 日本はヒエラルキーが強く、忖度をするので、本音の対話が起きにくいと感じています。この構造は会社だけでなく、いろんなコミュニティーにもあり、例えば産官学民の共創も隠れたところに心理的な壁があってうまくいかないことが多くあります。私は、日本の商社合併だけでなく、海外のM&Aも経験があるので、その経験を活かしたお手伝いは、FCAJでできそうな気がしています。

 2022年に豊田通商を退職しました。いくつかの企業からお誘いも頂いたのですが、ずっと「経済人属性」で仕事をしてきたので、これからは、それを一旦外して、「市民属性」、「地球人属性」で生きてみて、そこから見えてくるテーマに関わっていきたいと思っています。特に、次の世代に向けて、私の経験を活かして、新たな見え方や気付きに繋げるお手伝いが出来たら嬉しいと思っています。経営層でも、既存の考えに染まっていない人もいるので、ヒエラルキーを感じないフラットで本音の双方向の対話ができるといいですね。上の人間も忖度でまつりあげられていて、弱みを見せたくないので、強がってるだけだったりする傾向もあるかもしれません。お互いに一歩踏み出して対話することで関係性に変化が出てきたり、お互いに貴重な気付きや洞察の機会になるかもしれません。

 

■Q6. FCAJの若手に、メッセージをお願いします

まずは、ネットワークの多様性を保つことを意識してもらいたいです。ダイバーシティ&インクルージョン(D&I)というけど、今の仕事のネットワークだけに集中していないか?自分の中の多様性は拡がっているのか?逆に狭まっていないか?常に確かめながら、メンテナンスを続けたらいいと思います。できれば、海外のメンバーもネットワークに入っているとよいですね。多様な人々との対話の中で出てきた気づきと対峙して、内省や自分自身の変容、自分自身の内部のD&Iに繋げることも大事です。

 次に、リベラルアーツを学ぶこと。「感性」を大事にしてきましたが、私自身は本を読むほかにも、芸術に触れることも大事にしてきました。美しいものや自然に触れることは意識してやるといいです。

 そして、自分の価値観・志を大事にして、進化させながら、自分で選択する癖を身につけて欲しいです。この時にネットワークと感性・直観が活きてきます。価値観は、人によって違うことを認め、自分の価値観について考える癖を持ち、アップグレードしていってほしいです。その上で、自分で選択、決断すると、失敗しても真摯に反省することができます。人の判断にのっかると、人のせいにしてしまう。そうすると変化も起こせないし、成長も止まってしまうと思います。人のせいにしてしまう状況を、自分の中から追い出す癖をつけてもらいたいです。

FCAJ Interview09 加藤公敬さん

■Q1. デザインの道に進んだきっかけを教えてください

私がデザインを目指した理由は絵でした。小さい頃からしょっちゅう絵を描いていたようで…小学6年生の時に、母の絵を描いて市長賞を取ったことで「自分は絵が上手い!」と思いこんでしまったんです。それ以来なんとなく「デザイン」がやりたいと思っていました。でも当時デザイナーというと「何やらカッコよく製品の絵を描く人」。高校時代、文系か理系かを選択する時期に、先生からは「デザインをやりたいなら、文系の方が美術の時間が多いから文系」といわれるような時代でした。自分としては工学もやりたいとおもったので、意志を突き通して理系へ。その時文系に行っていたら、武蔵野美術大学や多摩美術大学のようなもっと感性を問われるアート系の大学に進学して、今頃皆さんにお会いしていなかったかもしれません。結局、九州芸術工科大学(現在は九州大学と統合)芸術工学部へ進学。「絵が好き、絵が書きたい、美しさに対する感覚があるんだ」という自分の想いを貫いたのが良かったのかなと思います。

 

■Q2. これまで歩んできたキャリアについて教えてください

大学卒業の時期にオイルショックが重なり、就職先がない時代でした。1年就職の時期を遅らせて富士通に入社。当時の富士通はまだまだものづくりの小さな会社でした。情報化時代に突入して、拡大するビジネス領域の広がりとともに新しいデザイン部署が次々と生まれ、富士通のデザイン組織の変遷と共にキャリアを積みました。大学では人間工学を徹底して学び、会社に入ってからは空間を勉強し、WebやUIを勉強し、経営のデザインまでたどり着きました。
 富士通からデザイン部門が独立して、自分がそこの社長になった頃が「黄金期」といえるかもしれません。会社に入社した時から、「デザイナーとして会社の中でえらくなってやる!」という思いはありましたから。でも、独立するときの説明会で、「経営の経験あるんですか!」とか「住宅ローン借りるときに富士通って名乗れないんですか!」といわれた時には、責任感で身震いしました!あんな経験はなかなかできないですし、刺激的でした。
 新しいことを始めるときは、そんな能力あるのかなと不安になることもありましたが、「新しい領域なんだから、新しいデザインで新しいイメージをつくっていけばいい!」と考えて、悩み過ぎず進んできましたね。行けといわれたところに、どんどん挑戦していった結果、デザインの領域を増やしていくことができました。デザイナーとしてシアワセだと思います。

 

■Q3. 自分の中で変化したことと、変わらないことを教えてください

自分の中に変わらずあるのは、「人」を中心に考えるという部分です。2000年に総務省から「デジタル・ディバイド解消」の通達があり(高齢者・障碍者の方がデジタル機器の普及に置いて行かれないよう、自社製品が対応できているのか点検をするようという通達)富士通でも、自社のWEBサイトが障碍者に使いやすいかを見直すことになりました。その時に、人間の認知・心理などよく勉強しましたね。「人」を理解するというのは、自分の強みだと思っています。いつも基本にあります。最近FCAJでも、社会課題の解決の前に、人の幸せの解決が先だというようにしています。DXといっても、先に技術ありきではなくて、人がこうしたいからDXをこうしましょう、という発想になって欲しいです。
自分の中で変わったのは、デザインに対する固執感でしょうか。FCAJの活動はデザインが中心にあるわけではないので、割と冷静な頭でFCAJの活動に取り組んできましたが、そうしているうちに段々とデザインに対する固執感がなくなってきました。デザインだけでなくもっと広い領域を考えればいいんじゃないか、デザインは若い人に任せて自分はデザインと他の分野との関係性について考えようかな…という心境の変化があったように思います。

 

■Q4. 自分の中で心掛けていることはありますか?

やれといわれたことは嫌がらずなんでもやることです。若手のうちは特に。そして、ただやるだけでなく完璧にする。中途半端にしないこと。やれといわれたことに、取り組む意義を感じられなかったり、疑問に思うこともあるかと思いますが、「これをやれば、こういうスキルが身につくんだ!」と意味付けをする自分なりのストーリーを作ってしまうのが良いと思います。私は、電光掲示板のドットデザインをやれと言われて、黙々と点を打つという時期がありました。5×7のピクセルでどうやって文字を表現するか、縮小しても見えるかどうかを、地道に検証して…。当時、社内で「一級ドットデザイナー」とまで言ってもらえるようになりました!

 また、「人」を理解するために、会議室やイベント会場の片づけを進んで手伝っていました。用が済むと“えらい人”はみんな先に帰ってしまいますが、自分は誘われても行かずに、「まだ次までに時間あるから」と言って最後まで片づけを手伝うんです。片付けが終わって会議室の鍵を閉めるときに、担当の方がふと本音を言う、そこに真実があったりします。結局最後は人と人ですよね。かつて富士通の社長も、現場、現物、現人という「三現主義」を掲げていました。ちなみに、この三現主義を理由に、けっこう出張申請を通していましたよ、「行って、見て、現場の人と話してこなくては!」ってね(笑)

 

■Q5. デザインはどのような力を持っているのでしょうか?

デザインの機能は分かりやすく伝えることだと考えています。伝えているつもりでも、全然伝わっていない、伝えた相手がわかってなければ意味がありませんから。私は富士通デザイン社長時代に、経営会議で使う資料作成のために今取り組んでいること(先行研究、手掛けている製品・ソフトウェアなどなど…)を、図・画像中心でわかりやすくまとめた資料を作っていました。社員同士、他の部署が何をしているのか知らないことも多いので、図や画像にすると内部の人も経営者もわかりやすくて重宝してもらえました。デザイナーの職能であり特権なので、やった方がいいと思っています。

 

■Q6. FCAJでこれからやりたいことを教えてください

これから、「デザインマネジメント4.0」を作るために紺野先生や関係者と議論をはじめています。そのベースとなるものが、FCAJですすめている3つのことです。

 まず、【目的工学】。目的は与えられるものであることが多いですが、目的をきちんと問い直してデザインをしていこうという学問です。2つめは【デザインの思考】。デザイン思考ではなく【デザイン思考】です。現代では、事実や課題もわからない中トライする思考が求められている中で、「アート思考は問題発見、デザイン思考は問題解決」などといわれています。でも、【デザイン思考】であれば、デザインにも問題発見ができると考えて「の」を表記して区別しています。3つめは【ソサエタルデザイン】。社会の仕組みをデザインすることです。今の日本では、女性にまつわることを男性が決定するために女性の意思が反映されない…という社会のねじれがあります。女性のことを決めるところに女性がいる、というのが当たり前になること、それも社会の仕組みのデザインです。

 ぜひ、若手の方にも議論に入ってもらいたいです。「三現主義」で構想の場に来てもらえたらと思います。

FCAJInterview08 中山こずゑさん

Q1.小さい頃はどんな子どもでしたか?

 小さい頃はGoing my wayな子だったと思います。小学校までは地元の学校に通い、中高は都内の私立女子校に進学しました。小学校の卒業文集に「国際的に貢献できる仕事をしたい」と書いていたのを最近みつけて、自分でも驚きました!
 「国際的に貢献」したいと思ったきかっけは、アポロの打ち上げの映像をみていて、同時通訳という仕事があることを知ったことです。すごい!!同時通訳になろう!と思って、高校の頃から学校と並行して同時通訳者を育成する専門学校にも通いました。でもその学校の校長先生から「あなたは同時通訳には向いていないよ」と言われたんです。「だって、同時通訳って自分の意見言えないんだよ?」と。私のことよく見抜いてるな、と思いました。
 それなら何をしようか…と迷いながら大学に進学、一般教養のマーケティングの授業に衝撃を受けて、英語は手段でしかないと気が付きました。その授業が、マーケティングという概念を日本に持ち込んだ村田昭治先生と井関利明先生との出会いでした。そこから学ぶことに目覚めて、徹底して勉強しました。
 実は、両親は「そんなに勉強してどうするの?短大でいいじゃない?」というタイプだったので、ずっと反抗していました。中学で私学を受験したいといったのも自分の意志。大学院へも理解を得られず奨学金で進学しました。早く家を出たくて、早くに結婚もしました。それでも、意志を通す、行動する、結果を出す、ということは自分でも徹底してきたと思います。

 

Q2.人とのネットワークをどうやって築いてこられましたか?

 私の20代の頃は、大学院を卒業する女性が就職できる企業がなかった。今じゃ考えられないけれど、先生に推薦状を書いていただき、それでも5次審査くらいまでありました。当時自動車産業は花形で、同期入社は900人くらいいた中で、大卒女性は50数名という時代でした。そういう中で揉まれながら過ごしました。今とは違って、××ハラスメントの嵐でした。男性優位の組織の中で、投資が、マーケティングが、と生意気にいうから…宇宙人みたいなのが来た!という感じで軋轢も多かったと思います。上司にこんな言われ方をしたら嫌だ、という経験がたくさんあったので、自分の中で「Don’ts list」をつくっていました。自分は絶対にやらないと心に誓いました。

 人とのネットワークというのは、作ろうと思って作るものではなく、Trust(信頼)だと思います。振り返ってみると「この人のために」とやったことが自分に返ってきていると感じます。真剣に議論をした人とは、いまだに食事に行って「よくケンカしたよね!」なんて話ができます。対立じゃない、Healthy conflict(健全な対立)でしたから。真剣に仕事をやるかどうかは、信頼に繋がっているかもしれません。それに、民間にだけいたのでは、ここまでの人のネットワークはできなかっただろうなとも感じます。行政(横浜市)、第三セクター(パシフィコ横浜)にチャレンジした経験が大きいと思います。

 娘に言われて気づいたのですが、私、初めて行ったレストランでも、1回でスタッフとすごく仲良くなってしまう。別段、自分を印象付けようとしているわけではないけれど、好奇心がそうさせるのかもしれません。

 

Q3.現在、お仕事で多くの重責を引き受けておられますが、引き受ける決め手は何ですか?

 現在、上場4社の社外取締役、社外監査役、多摩大の大学院客員教授、そのほか個人でコンサルタント業務もやっています。社外取締役という役割は重責ですが、オファーを受けるかどうかは、自分の心が動くか?と、相手の熱意を決め手にしています。また、チャンスが来るというのは、私にやれってことかな?と思うようにもしています。

 若い人には、「自分はこういうタイプの人だ」と決めつけない方が良いと伝えたいです。日産自動車時代、大きな部門のジェネラルマネージャーのオファーが来たことがありました。マーケティングの仕事以外やりたくないし、やれるとも思っていなかったのですが、家族に背中を押してもらって引き受けることにました。挑戦してみたら自分の想像以上にできた。心理学で「ジョハリの4つの窓」というのがありますね。他人が見ている自分を否定してしまうと、機会を逃すな、とその時思いました。

 横浜市長(当時)の林文子さんから、文化観光局長へのお誘いがあった際も、考えてもみなかったオファーでした。52歳での決断、会社に残ったなら、それなりのポジションも約束された中で、悲壮な決意をして移ったわけです。でも、さすがのトップセールスパーソンの誘い方は魅力的ではありました。誘われなかったら絶対に行かなかった、でも挑戦してみてよかった、面白かったです。誘われた時に行こうと思うかどうか、一歩渡るかどうか。誰かから強く要望されたら、自分がみえていない自分を見てくれている人がいるということ。そこは大事にした方がいいです。

 

Q4. ストレス解消法はありますか?

 料理!夜中に千切りとか黙々と…。意外だね!と驚かれますが、お味噌、梅干し、塩ラッキョウも自分で作ります。娘が小学生の頃、学校で「お母さんの料理ですきなものは?」と聞かれて「ヴィシソワーズ」って書いたことがありました。まだちゃんと字も書けない頃に「ウ」に点々つけて…。当時ヨーロッパ担当で、ヨーロッパによく行っていて、フレンチやイタリアンをつくるのにハマっていて、我が家の夏の定番料理だったからなんですが。普通、お味噌汁、とかハンバーグ、とか書きますよね。

 体を動かすのも大好きです。どんなに素晴らしい人でも、体調を崩してしまうと体現する場所がなくなってしまうと思うし、鬱鬱している人の下には人はついていかないと思います。落ち込んだ気持ちを晴らすためにも、ヨガに行ったり、ボクササイズに行ったり、スポーツでリフレッシュします。

 

Q5. 20代でやっておいた方がいいことがあったらアドバイスをお願いします!

 私自身、本に出てくる方々と直接話せた!という経験が、すごく滋養になったと感じています。Book smart,Street smartという言葉があるけれど、本を読むよりも、人との出会いがより刺激を与えてくれた、という実体験があるから、多くの人を知って欲しいと思っています。FCAJ理事インタビューは、FCAJをPRしようという動きの中でFCAJに集まる魅力的な「人」を知って欲しいという思いではじめました。人を知らないとここにいよう、入ろうというプラスの想いにならないですから。オンラインの時代ですが、結局は人でしょう?ブランドそのもののエンゲージメントもあるけれど、行きつくきかっけはやっぱり人。尊敬すべき人がいるかどうかが、モチベーションに繋がっていく。どんな世の中になっても人間であり続ける限り変わらないと思います。

 それから、海外に出るチャンスがあったら、行った方がいい。行きたがらない若者も多いし、行くチャンスも減っているけど、休んででも行った方がいいと思います。シリコンバレーにだって、私がもっと若かったら飛び込んでいると思う。日本の閉塞感、立ち位置、外から見た日本のことも体感できると思います。

FCAJInterview07 片岡裕司さん

■Q1. 大学卒業後、アサヒビールを就職先に選んだ理由を教えてください

尾張地方で100年以上続く繊維業一家の次男として生まれました。次男なんですが、いずれは家業を継ぎたいと思っていて、小さい頃からも良く口にしていました。家業を継げば小さい組織マネジメントはいずれ経験できるけど、大企業については知ることが出来ないと思って、大企業に絞って就職活動をしました。

正直、大企業であればこだわりはありませんでしたが、金融や食品メーカーだと、文系でも理解しやすいだろうと思い、業界をなんとなく絞っていきました。最終的には「アサヒビール」に入社。面接をしていく中で、なんとなくフィーリングが合っていると感じたからです。営業現場に配属され、やれること、やりたいことを見つけていった感じです。

■Q2. 会社でのキャリアについて教えてください。

当時のアサヒビールはビールシェア2位から1位になっていく時期で、夏には出荷制限がかかるようなことがあるような状況でした。忙しくはあったものの、「お客様の役になっているのか?」「自分自身の力を発揮して成果を出しているのか?」、実感が持てず、どこかつまらなさを感じていました。

ちょうどそのころ、社内で外食産業をサポートするコンサルティング会社が作られ、設立から数年後に自ら志望して出向させてもらいました。営業の立場の時、そのコンサル会社の人とチームを組んで仕事をする機会があり、コンサルタントの皆さんの方が「お客様の役に立っている」、「個人の能力で貢献している」姿にみえ、素直にそっちの方がやりたいと思ったからです。当時ある先輩からは、「将来どうなるか分からない子会社に出向して、自分からエリートコースを外れてどうするのだ」と忠告を受けたりしましたが、自分が成長するということと、打算で仕事を選ぶことと、どっちが後悔しないか?と考え、自分が成長する方だと思い出向しました。

学生の頃はバトミントンに熱中していて、高校の頃はインターハイに出るために、大学の頃はインカレに出るために頑張る日々でした。何か一つの事に集中し、それ以外のことをすることに罪の意識を感じてしまうタイプでした。入社してからも、そういう感覚で働いてしまっていました。会社にも朝6時に行ってたんですよ。誰よりも一番に会社に行くことが大事!みたいな価値観。前日どんなに遅くても、ワンタッチ家に帰って着替えて出てくる。何か、もうおかしかった。部活でレギュラーを取るために先生にアピールするような感覚。でも本当は苦しかったです。気づいていませんでしたが。

それが、コンサル会社に移ったときの上司が当時は変わった人で、「残業はさせない」ポリシーを貫かれました。最初は暇をもてあまして先輩を呑みに誘ったりしていました。でも、「暇な時に何をするかで、君の真価が問われるぞ。」といわれて、それまで、自己研鑽なんて考えたこともなかったんですが、この時に夢中で学びはじめました。何を勉強していいかも分からないので、簿記を始めたり、グロービスに行ったり、多摩大学大学院に通って、紺野先生と知り合ったのもこの時期でした。「正しい学び」にたどり着くまで、時間もお金もかかってしまったけど、学び出して、出会いもあって、自分のいい点も悪い点もわかるようになって、仕事もすごく楽しくなりました。

営業時代は、アサヒビールという体育会系の文化にめちゃくちゃコミットしたけど、変わらないといけないんだとすごく思うようになりました。学ぶことで「視野を広げる」ということができるということに気づくことができました。

■Q3. 入社10年目で独立して、リーダーシップ開発や組織開発に取り組まれるようになったきっかけや出来事を教えてください

アサヒビールのコンサル会社時代の、ある経営者さんとの出会いが一つのきっかけでした。上場するんだ!と、二人三脚で、売上を3倍にあげて上場が現実化したとき、経営者の方が悩んでしまわれたんです。よく話を聞いてみると、1店舗目から一緒にやってきた仲間たちを立派な社会人にしてやりたくて、「上場だ!」と言っていただけなんだと。でも、規模が大きくなっていく中で、ついてこられなくなってみんな辞めてしまった。なんだったんだろうね…と。

当時の私は、人と組織が強くなることより、事業的に成功させる方が楽しいと思っていました。会社のステージが変われば、必要な人材も変わって、適切に入れ替わるのは普通のこととも考えていました。でも、もっと「人が成長して、組織も大きくなる」ということを経営者と一緒にできる人間になりたい、と思うようになってきました。いずれ家業を継ぐ、という選択もあったので、独立することに決めました。

■Q4. FCAJに参画された経緯と、FCAJがどのような存在か教えてください。

FCAJの前進である組織(場の研究会)に事務局として関わっていたのが始まりです。場というものは何で、いったい何がイノベーションを生むのかといった調査を毎年していく研究会でした。フューチャーセンター(FC)という考えが欧州から聞こえてくる中で、このムーブメントをもっと大きくしていこうとしたのがFCAJです。

自分の中で、FCAJはインプットする場としています。色々な仕事をしている中で、インプットとアウトプットの場があると思っています。人と組織を真正面から捉えるのが私の本業だとすると、戦略から捉える人と組織もありますし、FCAJは私にとっては、イノベーションから人と組織を捉え直す場だと考えています。本業ではどうしてもアウトプット中心になりますが、FCAJはインプットの場、学びの場として非常に有意義な場所だと思っています。

■Q5. 30代前半までにやっておくべきこと、意識すべきことがあれば教えてください。

視野を広げるために、多様な人材ネットワークを作ることや、基礎となるビジネススキルを身に付けること。そして沢山の本を読むことが大事だと思っています。本は、30歳から毎年100冊以上は買うと決めています。

30代の頃の私自身は、会社の文化にコミットせず、自分の「学び」と「成長」にコミットして繋がりを広げることに喜びを感じました。こういうキャリアを積みたい、こういう人になりたい!という人を、いろんな業界にたくさん持てるといいと思います。

30代の大事なキャリア選択時に大事にしていたのは、「自分で決めない」というスタンスでした。「キャリアは自分で考えて自分で決めろ」とよく言われますが、「人生は一度きり」だけど「誰しも人生は一回目」だから、自信はないわけですよ。だとすれば、経験豊かな人で、憧れるような人に相談することが大事です。自分の環境を説明した時にどう言ってくださるか?そんなこと言われても、ということもあるけど、とりあえず言われたことはやってみる、ということを心がけていました。相談したり、判断をゆだねる先が会社の上司しかいないと、「あと3年頑張れ」としか言ってもらえないですからね!

FCAJInterview06 住田孝之さん

■Q1. どんな幼少期でしたか?

生まれも育ちも横浜の日吉。山あり谷あり、昆虫採集をする等自然豊かな環境で育ちました。男三兄弟の末っ子で、常に2人の兄の行動と結果をよく観察する癖がつきました。

中高生の頃は、数学と化学が大好きで、完全に理系。大学進学の際に文転し、大学では法学部を選択しました。でも、入っておいてなんですが、自分に法律は向かないと思いました(苦笑)。理系科目は、「再現が可能」だと思うのですが、社会科系の科目は暗記勝負。実は法律もロジカルにできているのですが、ベーシックな部分をたくさん覚えていないと論文は書けないし、法律の解釈は、いくつもあり、判例も覚えていかないといけない。「法律」というものに未来を感じられませんでした。

ちなみに、大学時代はアメフトをやっていました。中高は水泳部でした。今もスポーツが大好きです。走ることも好きで今も続けています。


■Q2. 通産省(現経済産業省)を就職先として選ばれた理由は?

就職活動を進める中で、日本や日本人のためになることができたら…という漠然とした感覚と、世界を相手に仕事がしたいという思いがあることに気がつきます。どちらも叶う仕事はなにかと考え始めたのですが、民間企業では社長のため、上司のために働くのか…と思ってしまい、当時の自分はどうもしっくりこず。それで、初めて、「役所」という選択が自分に合うかも?と思うようになりました。ただ、法学部の中からだと、すごくまじめな人が役人になっていくイメージが強くて、そんな人と一緒に働くなんて…と思っていました。

学部4年生の春、通産省の職員の方が、ご自身の仕事についてイキイキと話をするのに感銘を受け、ここなら思いを持った人と仕事ができるかもしれない、と通産省に興味を持ち始めました。国家公務員試験受験後の官庁訪問では、正直、通産省以外には全く興味を持てませでした。

無事に入省してからは、幸せなことに、30数年やりたいことをやらせてもらえました。新しいこと、イノベーティブなことが好きで、いろいろとモノ申していたのですが、それなりに評価していただけたと思っています。もちろん辛いこともありましたが、冷静に考えると自分の知識や経験が不足していることは明らかだったので、乗り越えなくてはと思って一生懸命仕事に取り組んでいました。


■Q3. イノベーティブなことが好きとのことですが、原体験はありますか?

子どもの頃、母と買い物に行くときに、お釣りがいくらか計算して、レジの人が言う前にいくらと言うんです。いつもすごく褒められました。下の桁から9を引くという簡単な引き算を思いついてやっていただけだったのですが、目の付け所さえちゃんとしていれば、すごいと言われることってあるのだなと思いました。これが原体験かもしれないなと思います。こんな風に、自分は何が得意で何が苦手なのか?をいつも考える癖があります。


■Q4. イノベーションの実装に取り組むきっかけは?

日本企業は、能力があるのに活かせておらず、経産省にいるときからマズいと思っていました。実は、日本人は改善、改良へのマインドはものすごく強いです。今まで培ってきたものを大きく変えるのが苦手なだけで、発想の転換をすればもっと大きなイノベーションが起こせる。そのために、企業という枠組みから離れたオープンマインドの人が集まる第三の場所を作りたいと思っていました。

また、政策が一番イノベーティブでないものだとも思ってもいたので、政策のイノベーションにも取り組みました。一番印象に残っているのは、「エコポイント」です。当時にしてみれば、まったく発想の違う政策でしたが、大きな話題になりました。ちょうど娘が中学生になった頃で、中学校の試験問題でも出たと言われました。家でよく話題を聞いていたから分かった、言われて、やっていてよかったと思いました。


■Q5. 仕事をするにあたって大切にしていることはありますか?

米国の大学院とベルギーでの駐在の合計6年ほど海外で暮らしていました。海外に出ると、常に「日本の強みは何か?」を考えるようになります。日本の文化、人種的な背景が、世界の中で弱みとして出るときがあることを明確に認識していました。決して弱みだけではない、強みを出せるようにしたいとずっと思ってきたことが、エコポイントの政策立案に繋がった部分もあります。「補助金をあげます」という政策ではなく「ポイントなんです」といい、貯めたくなる衝動を活用しました。受け手目線で、どうしたら共感してもらえるかを考え、デザイン思考で考えた政策です。

また、海外に出て以来、「負けない」「魂を売らない」ということを大切にするようになりました。海外では、簡単にはYESと言わない、常にNO!で戦う姿勢でしたね。体育会気質だからかもしれません。あとは、独りよがりで考えないようにすることも意識しています。何かやるときは、必ず受け手が何を考えているかを考える。何か伝えることが大事だというけれど、伝わっているのか?の方が大事だと思います。伝える行為だけでは解決しない、伝わっていて、共感を得られるかどうかが大事です。

一緒に仕事をする人に対しては、それぞれの個性を大事にして、その人の得意な分野で戦ってもらいたいと思っています。楽しいをみんなが感じ合えることをとても大事にしています。ヨーロッパでは、失敗したら乾杯しよう、という人もいました。日本にはない雰囲気だと思いました。楽しくないとイノベーションは生まれないですね!


■Q6. FCAJとはどこで繋がりましたか?

イノベーション政策を担当しており、2007頃には既に、イノベーションのための「場」が必要だという話がでていました。その後、赴任先のベルギーで当時の欧州のイノベーションの動きについても議論していました。紺野先生との出会いはその流れです。一緒に(場づくりを)やりましょうという動きになりました。

FCAJの活動は自分にとって集大成のひとつです。社会全体を変えていく、人間社会だけではなく、生態系全体に関わるような、自然の関わりを含めた社会、これまでと違う関係を作るためのイノベーションに繋げたいですね。若手のみなさんにも伝えられたら嬉しいです。先に話したように、「伝えたい」けど「伝わる」ことが大事なので、「伝わっている」かどうか…FCAJの活動の中で実感してもらえたらと思っています。


■Q7. 20代でやっておいてよかったこと、やっておけばよかったことは?

早い時期に海外で暮らすことはぜひやっておいた方がいいと思います。海外旅行ではなく、生活することで、日本の特徴にも気がつくことができます。イメージではステキなパリも、住んでみると治安が悪くて、盗難の被害にあえばいい体験だ、というくらい。

あとは、起業も若いうちにやっておくといいと思います。自分自身は起業した経験はありませんが、役所で起業に近い経験もしましたが、全然考えが甘い、ということに気が付きました。新規事業の立案等も含めて新しい企てに関わることを経験した方がいいですね!

聞き手・記事:村松和香(UR都市機構)

記録・編集:内原英理子(BAO)

2022年8月25日(木)16時~17時オンラインZoom